司馬遷の生涯~『史記』を著した2000年以上前の大歴史家~

司馬遷

司馬遷前漢武帝の時代に生きた歴史家で『史記』の著者です。『史記』は優れた史書として後世に大きな影響を与えましたが、司馬遷自身は悲劇の生涯を生きました。

※上の画像は司馬遷を祀った祠です。

司馬遷とは

司馬遷像
司馬遷像。

司馬遷(しば・せん…B.C.145~B.C.86)は中国古代の代表的な歴史書『史記』の著者です。

『史記』は中国の王朝が公式に編纂した最初の正史で、紀伝体という形式は後の正史に大きな影響を与えました。二十四史…正史24書の中で『史記』は『漢書』と並んできわめて高い評価を得ています。司馬遷は歴史家の家系に生まれ、その父の後を継いで歴史家になるよう教育を受け、若い頃は中国を広く旅して見聞を広めました。父の死後は役人として武帝に仕えましたが、対匈奴戦で敗北し匈奴の捕虜となった李陵という武将を弁護したことで武帝の怒りをかい、腐刑に処せられます。その後この屈辱に耐え『史記』を完成させました。

年表
年表。『史記』には殷以前の伝説~前漢までが書かれています。

司馬氏の家系

『史記』の前書きである「太史公自序」によれば、司馬氏は伝説の五帝の時代から天地を司る…天文の観察や暦の作成をしたり、地上の出来事を記録するなど…の官職についていたといいます。西周末にこの仕事を失い、その後は周の歴史を記録する官職に変わりましたが、春秋戦国時代に司馬氏は諸国に分散しました。代に司馬遷の父・司馬談が再び「太史令」という天文や暦法を司る官職につきました。

司馬談は武帝に仕えた役人であるとともに優れた学者でした。

司馬談には一つの夢というか一種の使命感がありました。孔子の編とされる史書『春秋』がB.C.481で終わった後、武帝までの400年を通して書いた歴史書はなく、この空白期間の歴史を書くことこそ司馬家の祖業を受け継ぐ自分の役割だと考えたのです。

そこで司馬談は中国各地に散らばる古い記録を集め整理するとともに、この仕事を息子の司馬遷にも受け継がせようと教育を施すことにしました。

父司馬談による教育

司馬遷の故郷
司馬遷の祠から眺めた司馬遷の故郷。

司馬遷は竜門(陝西省韓城市)という、の治水や「登竜門」の故事で有名な地方で生まれました。

司馬遷の故郷・竜門の地図
司馬遷の故郷・竜門の地図。

少年時代は故郷で畑仕事や牧畜を手伝っていましたが、10歳以前に父について長安近郊に移り住み、学者に師事して古文を学んだといいます。

もっともこの説には異論もあり、司馬遷が故郷を離れたのは19歳だという説も有力です。というのは10歳前に畑仕事は無理ではないか、そして司馬遷の人間観察の中に色濃く見られる一般大衆への共感は、エリート教育ではなく、20歳前までの農村での暮らしから得られたものではないかというのです。

『史記』が物語る文章のそこここや、「任安に報ずるの書」という李陵事件後の司馬遷の手紙からは2000年前の文章とは思えない生々しい人間の心が感じられます。確かにこうした印象からは後者の説に説得力を感じます。

20歳になると司馬遷は全国を旅して歩きます。長安を出発すると江陵から長江を渡り、洞庭湖から汨羅に行って屈原の霊を弔いました。

その後湘水を渡って九疑山に登り舜帝の墓を参拝し、長江に戻って廬山に登ってから呉越の古戦場である会稽山に登り、その後姑蘇山に登って太湖を眺め、春申君の古城を眺めます。

再び長江を渡って淮陰に行き韓信の伝説を集め、その後曲阜に行って孔子廟を訪れ、次にの都・臨淄(りんし)に行った後泰山に登ります。

更に孟嘗君の封地・薛に行き、による古戦場である彭城、豊、沛に行って地元の人々の話を聞き、の都・大梁に行って信陵君の遺跡を見、を通って長安に帰りました。

2年がかりの大旅行でした。

この旅行のスポンサーは父司馬談であり、これもまた司馬遷を歴史家として育てる一環だったといわれます。この長旅の途中で司馬遷は多くの災難に遭ったと書いていますが、2000年前の旅行ですから当然でしょう。

「孟嘗君列伝」の最後に、孟嘗君の時代から200年後の薛を訪れた司馬遷の感想が載っていて「ここの気風は荒々しく、無頼の食客をおおぜい集めた気風がいまだ残っていた」とあります。

この一言で歴史物語が突然リアルな場面となるのですが、こうした文章が『史記』にはところどころにあり、苦しかったであろう長旅が生かされています。

前漢王朝に仕える

大旅行を終えた後、司馬遷は前漢王朝に出仕し、郎中という官職につきました。郎中とは皇帝の警備をする役人です。

司馬遷は第7代皇帝の武帝に仕えました。B.C.112に武帝が雍(陝西省鳳翔)に巡幸した際には若き司馬遷も郎中としてお供しています。

また翌年のB.C.111には武帝の命令により、巴・蜀より南の地方に派遣されています。これらの地域で少数民族が漢に服属することになり、新たな統治のための任務だったといわれています。

父司馬談の死

泰山
泰山。

B.C.109に武帝は泰山で封禅の儀式を行いました。封禅の儀式とは、泰山で天地の神を祀る儀式で、百年以上前に秦の始皇帝が行い、次がこの時の武帝による封禅の儀式でした。つまり強大な権力を握った帝王のみが行える儀式です。

この儀式には太史令である父・司馬談が随行しましたが、途中で病に倒れ参加できなくなりました。

ここに駆け付けた司馬遷に父は「お前が太史令になったら、私が書きたいと願い続けた歴史書を必ず完成させてほしい」と言い残して亡くなりました。その後司馬遷は父の名代として泰山に向かい封禅の儀式に立ち会いました。司馬遷36歳のことです。

この儀式が終わると武帝は、東の黄海沿岸に行き、さらに北方の万里の長城の北東に行き、そこから西に向かって九原(内モンゴル自治区)まで行き、長安に戻りました。

この長い行幸にもお供した司馬遷は、こうして若き日の旅行のほか、役人としても大旅行を2回経験し、これは『史記』を執筆する上でおおいに役だったのでした。

父司馬談が亡くなって2年後、B.C.108に司馬遷は太史令を継ぎました。38歳の時でした。彼は太史令という職権を使って宮廷秘蔵の記録や文献を読みふけり、歴史書を書く準備を始めました。

しかし太史令としての仕事としてはまずは「太初暦」の制定の仕事があり、これがB.C.104に完成し、「太初暦」という新しい暦が発布されました。以後この暦は正暦として長く後の世で使われました。

「太初暦」が完成した後、司馬遷は親子二代の悲願である歴史書の執筆にとりかかります。42歳の時でした。しかしその5年後いわゆる「李陵事件」が起きました。

李陵事件と司馬遷

中国は昔から北方の遊牧民族・匈奴によってしばしば国土を侵食され、人や財物が略奪されてきましたが、前漢朝廷はこの匈奴に対してずっと融和策を採ってきました。

若き武帝の時代になると一転積極的にこれを攻略する政策に変わり、衛青やその甥の霍去病など天才的な武将の活躍で、匈奴は北漠に追いやられていきました。

ところがこの武将たちが亡くなると再び匈奴に押されるようになりました。

こうした状況の中「李陵事件」は起きました。

B.C.98李広利将軍は匈奴討伐に3万の兵を引き連れて酒泉を出発しました。

李陵という武将はこの討伐軍の輜重(しちょう…物資輸送)を命じられますが、李陵はそれを断ります。そこで武帝は李陵に5000の歩兵を率いて別動隊として敵情視察をすることを命じます。

李陵は武人として名家の生まれでした。その祖父李広は弓の名手で「飛将軍」として匈奴から恐れられましたが、衛青将軍とともに戦った際作戦を誤り、戦場で自刃しました。

李陵にはこうしたことからこの戦いに気負うものがあったのでしょうか、武帝の最初の命令を断ってまで戦場で戦うことを望みました。

ところが李陵軍は山中で匈奴8万の大軍に取り囲まれ、激戦の末に5000の李陵軍は壊滅、李陵は匈奴に投降しました。

李広利将軍は武帝が寵愛する李夫人の兄でした。この戦いはこの李広利に花を持たせる場でもありました。

かつての寵姫、のちの皇后・衛子夫の弟とその甥は武将として優れた天分を発揮し、多いに武帝を助けました。衛青と霍去病です。武帝は李広利にも期待をかけていたことでしょう。

その李広利はこの戦いで3万の兵士を引きいていましたが、匈奴の首級1万余を取ったものの味方の大半も失っています。

一方李陵は5000の軍勢で同じく1万の首級を挙げています。戦いぶりに遜色はありませんでした。

武帝側近の重臣たちは、武帝の顔色を見ながら李陵こそ敗戦の責任者だと口をきわめて非難しました。その席に司馬遷もいたのです。

武帝からどう思うか問われた時、司馬遷は李陵を弁護しました。

「李陵は人間として立派な男です。5000の兵を率い、死力を尽くして戦いましたが、援軍は来ず、弓矢尽きて投降しましたが、これは後で漢に報いようとしたからでしょう。功績は高く罪を問うべきではありません」

武帝は司馬遷のこの言葉を李広利に対する誹謗、ひいては自分に対する誹謗ととらえ、激怒して死罪を命じました。

司馬遷はなぜ李陵をかばったのか。二人はともに武帝の家臣として同僚ではありましたが、親しい友人とまではいえなかったようです。

ではなぜこのような危険なことをしたのでしょうか。いろいろな人がさまざまな憶測を書いています。

絶対権力者の前でひたすらおもねる人々への怒り。公正でありたい思い。武帝の人間性への信頼。

役人たちのドロドロとした人間関係にもまれることが少なく、専門職として誠実に、ある種純粋培養の中を生きてきた人間がぶつかった壁…

誰でも一生の間に何回かはある一瞬の激情。その人の人間性のすべてが現れてしまう一瞬。

その後の司馬遷が極度の苦しみに耐えて『史記』という史書の傑作を書いたことを思うと、その一瞬は偶然ではなく必然だったようにも見えます。

司馬遷は死の間際に、この時武帝の前でおのれが発した言葉を後悔はしなかったのではないでしょうか。

『史記』を書くために廃人として生きる

さて死罪を宣告された司馬遷ですが、当時の刑法では大金を納めるか、腐刑を甘受して廃人として生きることを選べば命を長らえることはできました。

司馬遷には父より託された史書を書くという使命がありました。危険を冒して諸国を巡り、史料を集め、満を持して執筆を開始して数年。これからというところでした。ここで死ぬわけにはいかなかったのです。

家貧しくお金で罪をあがなえない司馬遷には、腐刑という人間として最も忌まわしい刑を受けるしかありませんでした。

「任安に報ずるの書」には「この恥をおもうごとに、汗のいまだかつて背に発し衣をぬらさずんばあらざるなり」とあります。

このとき司馬遷48歳。この後の司馬遷は屈辱と人々から受ける侮蔑の中『史記』を完成させるためにだけ生きました。

『史記』執筆

司馬遷はその後恩赦により釈放され、中書令という高い身分、ただし宦官としての身分に取り立てられました。

李陵事件は、李陵が匈奴に投降し、その後匈奴を利する情報を流しているという噂が長安にまで伝わり、そのことが司馬遷の重い刑罰にもつながりました。

ところがこれは李違いで、別の李という人物が匈奴に投降した後の行為だったということがわかりました。司馬遷の再任用はこれに対する武帝の贖罪だったのではないかといわれています。

司馬遷はその後「腸は一日に九廻す」(一日に何度も腸がねじれる)という苦しみを経て、史書を書くことの意味を考え続け、そしてその意味にたどりつきます。

それが「発奮著書」思想です。これは「太史公自序」に書かれている以下のような内容を指します。

「昔西伯(周の文王)は幽閉されて『周易』を書き、孔子は陳や蔡で災難に遭って『春秋』を書き、屈原は放逐されて『離騒』を書き、左丘明は失明してから『国語』を書き、孫臏は足を斬られて兵法を論じ、呂不韋は蜀に左遷されて世に『呂覧』を伝え、韓非は秦に捕えられて「説難」「孤憤」の二文を書いた。

詩経』三百篇の大部分が聖人賢者の憤りを著したものである。これらの人々はみなこころに鬱屈したものを持ち、その出どころを得られなかったために過去を述べ未来を思ったのだ」。

司馬遷は過去のすぐれた書物を思い、それらが苦悩があってこそ書かれたものであることに励まされ、おのれもまたその列に続かんと『史記』を書き続けたのでした。

司馬遷が亡くなった年については実ははっきりしていません。おそらく50代半ばで亡くなったのだろうと考えられています。

ちなみに、『竜馬が行く』や『坂の上の雲』など歴史小説の作者として死後も人気の高い司馬遼太郎のペンネームは司馬遷にあやかっており、「司馬遷に遠く及ばぬ日本の者」という意味だそうです。