長江
Tweet長江(ちょうこう)とは、中国大陸を流れる川の名前です。黄河が中国北部を東西に流れているのに対して、長江は中国南部を東西に流れています。
ここでは長江の地図、長さ、源流、流域別の長江にまつわる話や、揚子江(ようすこう)という呼び名がある理由などについて紹介します。
黄河については『黄河』のページで詳しく紹介しています。
目次
- 1. 長江(ちょうこう)とは
- 2. 長江の長さと世界ランキング
- 3. 長江の源はどこ?
- 4. 長江上流とその物語
- 5. 長江中流とその物語
- 6. 長江下流とその物語
- 7. 「長江文明」とは
- 8. なぜ「長江」は「揚子江」となったのか?
長江(ちょうこう)とは
長江とは、中国大陸を流れる川の名前です。日本ではかつて「揚子江」という名前で知られていました。この川はとても長いので、場所によって名前が変わります。「揚子江」というのは長江下流の揚州付近での名称です。
長江の長さと世界ランキング
長江の長さは全長6300キロメートル、ナイル川・アマゾン川に次いで世界第3位の長さを誇ります。
また、北方の黄河は全長5464キロメートルとなっています。
長江の源はどこ?
長江は青蔵高原を出発して東に向かい、青海省・四川省・チベット自治区・雲南省・重慶市(四川省)・湖北省・湖南省・江西省・安徽省・江蘇省・上海市など11の省や市、自治区を経て最後に東シナ海に注ぎます。
その水源は、青海省とチベット自治区の境界にそびえるタングラ山脈の1つ・グラタンドン山(標高6621メートル)の西南麓の氷河です。
水源が確定したのは実は近年で1986年のことです。1976年に中国で初めて探査隊が組織され上記の水源がいったん確定したのですが、いくつかの問題点が残ったため1978年に再度江源考察隊が組織され、さらに1986年にも考察漂流隊が組織されてやっと上記のとおり確定したのです。
長江水源の探査には1985年日本からも学術登山隊が派遣され、その結果は中国の探査隊と同じでした。この時の報告書によると、グラタンドン山の西南麓の氷河には渓谷ができていて、そこにある幾筋もの川床を氷が滝のような音を立てて流れていたそうです。この無数の水流のすべてが長江の始まりだと報告書は記しています。
長江上流とその物語
長江上流とは、水源から湖北省宜昌(ぎしょう)まで全長約4530キロメートルで、かつてはその多くが少数民族…チベット族・ナシ族・リス族・イ族など…の住む地域でした。
長江三峡はこの上流一番の見どころです。三峡というのは3つの峡谷(きょうこく…切り立った深い谷)の総称で、重慶市にある白帝城から湖北省宜昌にいたる長江600キロの途中で見られる絶景です。ここの風景は両岸の断崖絶壁、谷底を船が行き来する写真などでお馴染みです。
ここはまた李白の詩『つとに白帝城を発す』……
朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る 両岸の猿声啼いて尽きず 軽舟已に過ぐ万重の山
……この七言絶句が思い浮かぶ場所でもあります。
この三峡の出口ともいえる部分に2009年「三峡ダム」が作られました。多くの文化遺産が水底に沈みましたが、上記の詩でも有名な白帝城は島となって残りました。
長江中流とその物語
湖北省宜昌から江西省の湖口県までが長江中流で、全長938キロメートルで、このあたりはかつて荆楚(けいそ)の地と呼ばれていました。
中流沿岸で有名な観光地は「赤壁」(せきへき)です。後漢末の208年、この地で魏の曹操と呉の孫権・蜀の劉備連合軍との水戦が繰り広げられました。今も川辺の岸壁には「赤壁」の赤い文字が記されています。
長江下流とその物語
江西省の湖口県から海に注ぐところまでを長江下流といいます。全長835メートルで古くは呉楚の地と呼ばれました。
長江下流で一番の観光地といえば上海です。上海は観光地であると同時に今や現代中国随一の経済都市として繁栄を謳歌しています。ここを描いた物語は枚挙にいとまがありませんが、戦前のやや気だるい上海を描いた作品に陳愛玲の小説があり、当時のフランス租界を舞台とした一種の退廃美は今も不思議な魅力を放っています。
「長江文明」とは
黄河文明は世界4大文明の1つとして日本人にもよく知られていますが、「長江文明」という言葉は20世紀も終わりごろになってしばしば耳にするようになりました。黄河文明は紀元前7000年頃から始まった文明ですが、20世紀後半になって長江流域でもさまざまな遺跡が発見されるようになりました。
たとえば1973年浙江省で発掘された「河姆渡」(かぼと)文化遺跡は今から7000年くらい前の遺跡で、ここからはたくさんの穀粒が出土、稲作農耕起源の地ではないかと考古学者の間で議論が交わされています。
また同じ浙江省の「良渚」(りょうしょ)鎮からも数多くの遺跡が発見され「良渚文化」と呼ばれています。ここでも水田の跡があるほか宮殿や神殿があって階級社会が成立していたことがわかっています。ところが高度に発達していたとみられるこの文化は、紀元前2000年代に突然滅亡してしまうのです。ある学者は、この時期気候変動による大洪水が起き、良渚文化の担い手である越系民族(蚩尤…しゆう…部族ともいう)は流民となって黄河中流域に入り込み、黄帝の子孫と称する先住民と戦い破れはしたものの、中原の王朝・夏(か)王朝に文化的影響を与えたのではないかと考えています。
気候変動による大洪水…中国版ノアの箱舟ですね。世界中にある洪水伝説、中国にもあったのかもしれません。
またここに出てきた蚩尤(しゆう)とは中国の神話に出てくる神様でもあります。黄帝から王座を奪おうとして乱を起こし、魑魅魍魎(ちみもうりょう)を味方にし風雨を巻き起こして黄帝と戦い敗れます。上記の学者の説によれば、この神話は史実を反映しているということになります。
なぜ「長江」は「揚子江」となったのか?
中国人は、長い川・長江を単に「江」とか「大江」と呼んでいました。「江」はいわゆる「川」という意味で、「大江」は「大きな川」という意味になります。ちなみに日本でも隅田川の下流をかつて「大川」と呼んでいました。スケールはだいぶ違いますが…。墨田川は全長約23キロメートル、長江は6300キロメートルです。「長江」という名は、1949年新中国になってから使われるようになった名称です。
この長い長江、場所によって名前が変わります。6300キロもあるんですから当然でしょう。「揚子江」という名前は、長江の流れのうち江蘇省にあった「揚子津」(ようすしん)あたり、上海付近の流れを指すものでした。
なぜこんなマイナーな場所の名前が長江全体を意味するものとして日本に伝わったかというと、今をさかのぼること千年以上も昔、日本から唐を目指す遣唐使の乗った船が嵐に翻弄されながらなんとかたどり着く場所がこの長江の下流でした。遣唐使たちは、そこを少しさかのぼって揚子津の渡し場から隋の煬帝が作った大運河に入り北の長安を目指します。
中国の大河はすべて西から東に流れ、南北を結ぶ大河はないのです。長安や洛陽など統一王朝の都はみな北にあるのですが、乾燥した気候の北では豊かな農作物は期待できません。そこで水の豊かな南方から物資を都まで運びたいというのが歴代王朝の夢でした。それを初めてかなえたのが隋の煬帝です。7世紀初頭100万の人力を使っての大工事、長さ2500キロと言いますから北海道最北端から鹿児島最南端くらいまでの長さです。この距離の運河を5か月で完成させたそうですから中国人のやることは昔から大きい!けれどもこの無理もたたって反乱を招き隋は建国からわずか37年で滅びます。煬帝の最期も暗殺でした。
さて話を戻しますと、遣唐使の一行はその隋が残した大運河があったからこそ、そこからの長旅を船で長安に向かうことができました。陸路だったらさらに大変だったことでしょう。
遣唐使の一行がその船旅に向かう揚子津の波止場で「この川はなんという名前ですか?」と周囲の中国人に聞いたところ「揚子江」という答えが返ってきたと言います。そこで遣唐使たちは長江の名前を「揚子江」と誤解したのだそうです。
この説は中国文学科の古典専門の先生から伺ったものですが、別の本によりますと19世紀に中国にやってきた欧米人が誤解して使い始めたとあります。どういう誤解からなのかは書いてありません。こちらの説に従えば「揚子江」という名称は19世紀になって日本に伝わったことになりますが、日中のつきあいは欧米人より古く、卑弥呼の時代、さらにそれ以前にさかのぼるわけです。一方ヨーロッパ大陸からの旅人はシルクロードを通ってきたでしょうから長江と出会うのは日本より遅かったことでしょう。
揚子江という名称、日本人が先に誤解したのか、それともヨーロッパ人が先なのか謎です。ともあれ日本は近年中国にならって「長江」と呼ぶようになりましたが、欧米では今も「揚子江」(ヤンズリバー・ヤンズジアン)と呼んでいるということです。