マンダリン(北京官話)

マンダリン(北京官話)

中国は国土が非常に広く、その分、方言も多くなっています。その中でも北京地方で話されていた言葉を英語でマンダリン(Mandarin)と呼ぶようになりました。ここではマンダリン・北京官話について紹介します。

マンダリンとは

マンダリンとは、「北方方言に基づく中国の標準語」を意味する古い言葉です。清朝時代にこれを「北京官話」と言い、「官話」とは「公用語」という意味ですが、これを英語で「マンダリン(中国の官僚)」と訳したのです。

中国の標準語と方言

中国は日本の26倍の広さを持つ国です。日本が26個入るのですから、1つの言葉が隅々にまで行き渡ることはあり得ないわけで、中国大陸の北と南では言語体系が異なり、さらに北は北、南は南で細かく分かれていきます。ただ北と南を比べると北の方が差異が小さく、南の方が差異が大きい。南方方言に属する上海語・広東語・福建語などの間では互いにまったく意味が通じませんが、北方方言では距離が離れていてもそこまでではありません。

いずれにせよ、国内でこんなに言葉が違うのになぜ国として統一できているのか不思議ですが、これは音が違っていても文字が同じ、つまり中国全土で文字としては同じ漢字を使うので同一国家と認識されているのです。漢字が広大な中国を一つにしていると言っても過言ではありません。

北京官話とは

北京官話(マンダリン)は北京語と北方中国語を土台にできあがった言葉です。

南北朝時代(439~589)に中原(ちゅうげん…黄河中下流の平原)の「雅音」(高級官僚や文人の使う言葉)が南に移り、やがて南北2つの言葉に分かれました。

六朝時代は南京(当時は「建康・建業」と呼ばれた)が首都だったため「南京官話」が標準語となりました。

隋・唐で北に都が移り、南宋では南に、元朝で北京に、明では最初南に、やがて北京に都が移ります。

清朝が成立しすると雍正帝の時代に北京官話を標準語として全国に広めたため、以後北京官話が南京官話に取って代わり、中国官僚の使う言葉の主流となっていきました。

清末になると北京官話を基礎とした新しい「国音」(国の言葉の音)が制定され、こののち北方官話を基準とした「国語」(標準語)が官界における標準言語となりました。これが現代における「普通話」(プートンホワ…大陸では標準語のことをこう言う)または「国語」(グオイー…台湾では標準語のことをいう言う)になっていったのです。

日本に伝わった中国語は?

中国大陸に2系統あった標準語…北京官話と南京官話ですが、古くから中国と付き合いのある日本にはどちらの音が伝わってきたのでしょうか。

日本に伝わる漢字の読み方には呉音・漢音・唐音の3種類があり、このうち漢音は長安付近の音(つまり北方の音)で、日本の漢字の多くはこれで読んでいます。呉音はもっと古くから伝わった音で経路は不明、仏教関係はこの音で読むことが多いと言われます。唐音は鎌倉以降に禅僧により伝えられた音です。

例えば「京」は、漢音では「きょう」・呉音では「けい」・唐音では「きん」と読みます。「明」は同様に「めい」・「みょう」・「みん」です。

江戸時代、鎖国をしていた幕府はオランダと清にのみ貿易を認め、長崎にはオランダ商館と唐人屋敷があってここで商取引をしていました。

この時中国からやってきた商人は「唐人」と呼ばれ(当時の中国人…漢民族は異民族に支配されていることを屈辱とし、自分たちを清国人ではなく唐人と呼ぶよう求めていたといいます)、浙江省や福建省の人が多かったそうです。そこで彼らの言葉は北京官話ではなく南京官話でした。役人ではなかったので北京官話を覚えることはなかったのでしょう。

この後、江戸幕府で清国人との通訳をした人は彼ら唐人の子孫で、代々世襲として通訳を務め「唐通事」と呼ばれていました。

この時代、中国語を学んだ日本人は「南京官話」つまり南方方言を学んでいたのです。

明治以降の中国語教育

やがて明治維新が成立しますが、明治以降も日本人が学ぶ中国語は南京官話であり、それが北京官話つまりマンダリンに変わるのは1874年です。この年日本政府は北京に公使館を置くのですが、ここで初めて南京官話が通じないことに気づくのです。

当時日本に北京官話(マンダリン)の教科書はありません。急きょイギリス公使の作ったテキストを参考にして教科書を作り、1876年に東京外国語学校(今の東京外語大学の前身)に北京旗人(清朝の貴族)を招き、マンダリンを教えてもらうようになりました。

戦後の中国語教育

日本における中国語教育は戦前はほとんどが古典であって、現代中国語を教えようという発想はなかったようです。古典は学ぶ価値はあっても現代中国語には学ぶ価値などない…という考え方だったのでしょう。戦後も京都大学などは依然古典を重んじ、現代中国語は東京大学などを中心に教えるようになったと聞いています。戦後まもなく中国大陸では共産党が統治するようになったこともあり、現代中国語を勉強するのは「左翼」という風潮もありました。

やがて中国語は他の言語と同様、外国語の一つとなりましたが、その時教える音は中国大陸における標準語、いわゆるマンダリンの系統でした。

そこで戦後の日本で中国語を教える先生の中には「北京旗人」、つまり清朝に仕えた満州族の貴族の流れを汲む人もいました。

私の友人にこうした先生に教わった人がいて、今も非常にきれいな中国語を話します。この先生は貴族の育ちだったため、日本に来ても女性でありながら掃除、洗濯、食事など家事全般がまったくできない方だったと聞きました。