商鞅と変法の改革【秦を氏族制社会から中央集権へと改革】

商鞅

商鞅(しょうおう)は、古代中国・戦国時代の孝公に仕えた政治家で、法家思想に基づいて変法と呼ばれる改革を行い、秦を強力な中央集権国家にしていきました。この改革が後の始皇帝による秦王朝を生み出す土台となるのですが、商鞅はその改革で不利益を被った層により命を奪われました。

商鞅とは

商鞅(しょうおう…BC.390~BC.338)は、中国の戦国時代(BC.475~BC.221)にの孝公に仕えた政治家です。最初、の宰相の食客となりましたが、魏王が彼を取り立てようとしなかったため、当時人材を求めていた秦に行き、秦の君主・孝公に抜擢されて「変法」と呼ばれる大改革を行いました。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。

この改革によって秦はそれまでの氏族社会から、君主に権力が集中する強力な独裁国家となり、また法の徹底や厳罰主義を推し進めました。秦は富国強兵に成功し、やがて戦国七雄という割拠状態から抜け出して超大国になり、始皇帝時代に中国を統一して秦王朝を打ち建てます。商鞅による改革はこのための礎を築いたといえましょう。

秦に成功をもたらした商鞅は孝公の死後、後ろ盾を失って、氏族社会の解体で没落した貴族の恨みを買って悲劇的な死を迎えました。

年表
年表。商鞅は戦国時代の秦の宰相です。

商鞅の生涯

商鞅は衛の公子、つまり貴族でした。若い頃刑名学…法治主義の思想…を学び、の宰相・公叔座(こうしゅくざ)の食客となります。

公叔座は商鞅の才能を認め、魏の恵王に自分がもしもの場合は商鞅を登用するよう、登用しないのであれば彼の命を奪うよう進言しましたが、恵王はこの話を聞き流し、どちらの提言も採用することはありませんでした。

公叔座が亡くなると、秦の孝公が人材を求めていたため商鞅は秦に向かいました。

秦は穆公(ぼくこう)の時代、春秋五覇の一に数えられるほど国力が増しましたが、その後に攻め込まれて多くの領土を失っています。孝公には秦を再び過去のような大国にしようという野心がありました。

商鞅は孝公の寵臣を頼って孝公に近づき、やがて高位へと上り詰めていきました。

商鞅による秦国の大改革…氏族社会の解体

孝公に抜擢された商鞅は第一次変法(へんぽう…改革のこと。BC.359)と第二次変法(BC.350)の2回に分けて秦国の政治に大ナタを入れていきました。

商鞅による変法

商鞅はまず民からの信用を得るために都の南門に三丈の長さの木を植え、この木を北門に移した者には10金を与えると布告しました。

けれど民たちは怪しんで、誰も実行に移さなかったため、次に50金を与えると金額を上げて布告しました。

するとある者が木を北門に移したため、商鞅はこの者に50金を与えました。

こうして商鞅は民衆から信用を得ることに成功し、以降の変法へと繋がりました。

第一次変法

第一次変法ではさまざまな政策により、氏族制社会(しぞくせい しゃかい…血縁関係を基礎とする社会)を解体しました。

分異(ぶんい)の令…2人以上男子のいる庶民の家を分家させ、氏族制に基づく大家族を解体するという政策。

什伍(じゅうご)の制…5家を単位として徴税・徴兵し、互いに監視させました。こうして血縁ではなく他人同士が組織されて、中央の役人の支配を直接受けさせるという政策。

軍功爵(ぐんこうしゃく)…君主の一族も含めた支配者層に対して、軍功に応じて爵位を与え、軍功がなければ支配者としての戸籍をはく奪するという政策。

この政策により、支配層の氏族制的特権は奪われ、逆に軍功を挙げれば名もない庶民でも高位・高官に昇ることが可能になりました。

漫画・アニメ『キングダム』は、始皇帝時代前後の秦が物語の背景になっています。主人公・信は社会の最下層に属する捨て子ですが、軍功を挙げれば将軍になれると剣の技を磨き続けます。

このような上昇志向エネルギーの渦巻く社会の基盤を作ったのが商鞅でした。

中原から遠く離れ元蛮族の地であった秦はもともと氏族制が弱かったのですが、この改革により氏族制は解体され、一国において君主のみに権力が集中する強力な独裁政権が作られました。

第二次変法

第二次変法は、第一次変法によって兵士は強くなり農業生産力は上がり、富国強兵が成功して秦の大国化が進んだのを受けて、君主の権力をさらに強めるために行われました。

たとえば分異の令の徹底化。

さらに県を31か所に設置。そこに一代限りの役人を派遣して直接統治し、王権の基盤としました。

改革の光と影

こうした改革によって秦は強国にのし上がっていきます。商鞅は将軍としてかつて食客をしていた魏に出兵しこれを討ちます。この功績により商鞅は商に封じられて商君の名を得ました。

けれども法の徹底と厳罰主義には不満の声も高まりました。

商鞅の改革で最も不満を高めたのは各地の有力貴族で、彼らは特権を失ったことで商鞅を憎みました。それでも商鞅が10年の長きにわたって秦の宰相の地位を保ち続けたのは孝公の後ろ盾があったからです。その孝公が亡くなると商鞅はたちまち追われる身となりました。

商鞅は秦の都を脱出して国境の旅籠に泊まろうとしましたが、秦では身分証明書のない者を泊めることはご法度です。商鞅は自分が作った厳しい法のしっぺ返しを受けたのでした。

その後商鞅は魏に向かいますが、魏にとって商鞅は裏切り者です。魏の当局は商鞅を捕まえて秦に送り返しました。追い詰められた商鞅は兵を挙げて戦死し、遺体は車裂きの刑に遭い、一族はみな処刑されました。

商鞅
商鞅は最後、手足と頭を5頭の牛と結び付けられ、別々の方向に走り出すという車裂きの刑になってしまいます。

強大な秦を作り上げた立役者は商鞅でしたが、彼はこうして悲劇の最期を遂げました。

けれども秦は彼がいなくなった後も商鞅の政策を続け、後の始皇帝による中国統一の基盤を作り上げました。