殷(商)の歴史【甲骨文字と青銅器技術・逸話集】
殷とは周の前にあった王朝で、その都である殷墟から甲骨文字が発掘されました。この甲骨文字の解読により、その内容が『史記』に書かれてある内容と一致し、そのことによって殷は実在した王朝であることがわかりました。
※上の画像は殷時代に作られた青銅器です。
目次
- 1. 殷とは
- 2. 殷の実在証明…二重証明法
- 3. 『史記』に書かれた殷
- 4. 甲骨文字の発見と殷の実在の証明
- 5. 殷王朝の歴史
- 6. 殷王朝とはどんな時代だったのか
- 7. 殷王朝の滅亡
- 8. 殷と商の違い
- 9. 殷王朝のエピソード1…初代湯王の人となり
- 10. 殷王朝エピソード2…殷王朝の城壁は今も残っている!
- 11. 殷王朝エピソード3…婦好墓
- 12. 殷王朝の青銅器
殷とは
殷(いん)とは、「文献(紙)」と「(発掘により)出土した文字資料」双方によってその実在が確認されている中国最古の王朝のことです。これ以前の王朝には夏(か)王朝がありますが、こちらは考古学上の出土品に文字資料がなく、その実在に100%の確証はありません。ただし中国の学会においては一般に中国最古の王朝は夏とされています。その夏を倒して紀元前1600年ごろ新たに建てられた王朝が 殷(いん)です。殷は商(しょう)とも呼ばれます。
殷の実在証明…二重証明法
夏はまだ100%実在とは言えないのになぜ殷は100%実在なのか。これは上に書いたように、殷墟という殷の都の跡から大量の甲骨文字(亀甲や牛の肩甲骨などに刻まれた文字)が出土し、ここに書かれた歴代の王の名前が、司馬遷の『史記』第三巻にある「殷本紀」に出てくる殷王の名前と一致したからです。このことは司馬遷の殷に関する記述がほぼ史実であることと、甲骨文字に書かれていることも事実であるということを意味し、これを二重証明法といいます。
殷はこの二重証明法によって実在の王朝であることが証明され、夏はおおよそ実在とは思えるものの、ジグソーパズルの最後のピース…出土物から夏の文字などが出てこない…が埋まらないのです。
それにしても二千年前に書かれた内容(『史記』)と、さらに古い時代に刻まれた内容がほぼ一致したというのですから、当時の関係者はどれほどワクワクしたことでしょうか。
殷にしても文字資料が出てくるのはその後半期からです。殷の前半期であろうと思われる遺跡からは文字資料は今のところまったく出てきません。夏王朝はさらにその前ですから文字資料が出てこない可能性は高く、もしかしたら永遠に幻の王朝かもしれません(中国では実在の王朝として認められています)。
『史記』に書かれた殷
司馬遷の『史記』の殷本紀(いん ほんぎ)は殷の滅亡から千年の後に書かれた殷の記録です。紀元前91年という今から二千年も昔に書かれたこの歴史書の中の、さらに千年以上古い出来事が記憶され記録されており、司馬遷はそれらの史料を元に殷本紀を書いています。
それによると、殷の湯(とう)が挙兵し暴虐な夏王朝の桀(けつ)王を討ち破り殷王朝を建てたとあります。殷王朝には30代にわたる王がいて、最後の紂(ちゅう)王の時、紀元前1050年頃に周に滅ぼされます。殷王朝それぞれの代の王については簡単なエピソードのみ書かれ、具体的な治世の内容については書かれていません。また殷は滅ぶまでに5回遷都したとあります。
近代の学者たちはこうした記録に対して「信古」派と「疑古」派に分かれ、疑古派の代表・胡適(こ・せき…1891~1962)は「東周以上に史なし」と言い、BC.771周王朝の東遷以前の歴史(夏・殷・西周)についての文献には信ぴょう性がないと考えました。
甲骨文字の発見と殷の実在の証明
「東周以上に史なし」とは夏・殷・西周という王朝は伝説や神話の類と思われていたのでしょう。ところが1899年のある日、清朝の国子監祭酒(こくしかん さいしゅ…国立科学院院長のような地位)であった王懿栄(おう・いえい)の食客・劉鉄雲が薬材店から買ってきたマラリアの薬である「竜骨」に古代文字のようなものが刻まれていることに気づきます。古代文字に興味を持ちその知識もあった王・劉の二人はその後「竜骨」の収集と研究に努め、やがて劉はこれは殷代の文字による卜辞(占いの言葉)であると直感し本に著します。これが神話と伝説の中にあった「殷」が、突如実在するものとして現実の中に現れたきっかけです。
この甲骨文字に関して研究を前進させたのが劉鉄雲の友人・羅振玉と王国維です。
羅は1911年に弟を「竜骨」が出土した現場に派遣、そこが河南省安陽市西北の小屯村であることを確認し、そこから出土した竜骨(すなわち後の甲骨)・石器・骨角器・土器などを集めさせました。
やがて小屯村は「殷墟」(殷の都の遺跡)と呼ばれるようになります。
ちなみに羅は辛亥革命後出土品や拓本を持って日本に亡命、京都に住んで研究書を出版し甲骨文解読の基礎を作りました。
一方王国維は古典に関する深く広い知識によって研究を進め、『史記』に出てくる殷王朝の王の名と甲骨文の先祖の名前が一致することを発見するなど、甲骨文の史料的価値を確固たるものにし、これが中国古代史研究の出発点となりました。
殷墟から出た「竜骨」が後の「甲骨文字」ですが、これは亀の甲羅や牛の肩甲骨に文字が刻まれたもので「亀甲獣骨文字」と名付けられ、後にこれを略して「甲骨文字」と呼ぶようになりました。
殷墟の発掘調査は当初日本人を含む外国人の手で行われてきましたが、1928年からは中国人自身の手による発掘が始まり、日中戦争が勃発する1937年まで全15回行われました。
その結果この遺跡からは大量の甲骨や青銅器、宮殿跡、竪穴、墓などが続々と出土しました。
殷王朝の歴史
このようにして殷王朝は実在の王朝として人々の前に現れました。
紀元前1600年ごろ、成湯大乙(せいとう たいいつ…初代殷王・湯)に率いられた殷が河南省の黄河流域で成立して次第に勢力を拡大させ、やがて夏の桀王を滅ぼして殷王朝を打ち建てたと考えられています。
約500年近く続いた殷王朝は一般に前期と後期(中期を入れる説も)に分けます。
殷王朝前期:BC.1520~BC.1300
1951年に河南省鄭州市で発見された「二里岡(にりこう)文化遺跡」が殷王朝前期の都の跡とされ、そこからは巨大な城郭や多くの青銅器が出土しています。また偃師市で発掘された遺跡も殷前期の都の跡と言われています。ここは夏王朝の遺跡と言われる「二里頭(にりとう)遺跡」のすぐそばにあり、前王朝の都のすぐそばに次の王朝の都があったことになります。
殷王朝後期:BC.1300~BC.1050
殷王朝後期の都が殷墟です。殷はしばしば遷都をしたと言われ、ここが殷最後の都です。河南省安陽市西北の小屯村で発掘されました。城郭はまだ発見されていませんが、規模は二里岡遺跡より大きく、長期にわたって都として使われていたことが伺われます。宮殿、墓地、竪穴住居、青銅器、玉石器、土器、骨器の製造工房、大量の甲骨などが発見されています。
殷王朝で文字資料が出土しているのは後期のみで、殷王朝前期の都があったと思われる遺跡からは文字資料は出土していません。
殷の相続は兄弟間で行われていましたが、殷末期になると父子相続が始まり、周代に入ると父子相続に限られるようになります。
殷王朝とはどんな時代だったのか
殷王朝とはどんな時代だったのか。
甲骨文字は卜辞…占いの言葉ですが、殷王はあらゆる事柄について神の意志を尋ねています。戦争について、農作物の収穫について、祭祀で捧げるいけにえの数など…。殷王はこの占いの結果によって政治を行いました。
王にとって最も大切な任務は祖先の霊など神霊に対する祭祀でした。
王や妃が死ぬと地下深くに作られた墓におおぜいの殉死者や豪華な副葬品とともに埋葬され、そこからは殷王の権威と権力の大きさを感じることができます。
殷王朝の時代に青銅器の鋳造技術は最高のレベルに達し、その多様なデザインや緻密な模様、出土品の多さなど他の時代をはるかに超えていて、ここには専門の職人集団がいたことが伺えます。
後期殷王朝の都・殷墟では中枢部分が河や堀で囲まれ、5キロ四方に王室の宮殿や宗廟、青銅器や玉器などの工房や貴族のやしき、墓地、下層民が暮らす竪穴式住居などがありました。
殷王朝は中原(黄河中下流域)に拠点があっただけでなく、中国大陸の各地と交流を持っていました。
山西省の「垣曲(えんきょく)古城」や湖北省「盤龍城(ばんりゅうじょう)」、河北省「藁城台(こうじょうだい)西村遺跡」、北京「劉家河(りゅうかが)遺跡」などは、殷王朝がこうした地域の文化と軍事的なかかわりや交易関係があったことを示しています。
殷王朝が長江中流域にまで進出していた理由としては、青銅器の原料である銅を手に入れようとしていたのではないかといわれています。
成都にあった三星堆(さんせいたい)遺跡文化はBC.2000年紀の千年間繁栄を続けた文化ですが、時期的に前半は二里頭遺跡や二里岡遺跡の時代と、後半は殷墟遺跡の時代と重なります。きわめて独特な造形を持つ青銅器は三星堆文化の特徴の一つですが、ここから出土する青銅器の材料と製造方法は殷が存在した中原とまったく同じであることがわかっています。
殷王朝の滅亡
殷は第30代紂王の時代に滅びます。
殷王朝最後の王である紂王は東南にあった淮河(わいが)流域の人方国への大征伐を試みるのですが、その間西の陝西で勢力をたくわえていた周が背後から殷を攻撃、紂王は敗れて河南省の鹿台にあった離宮に放火しその中へ自分も飛び込んで殷は滅びます。
紂王と言えば希代の暴君、ローマ帝国のネロに匹敵する残虐きわまりない王として歴史に名を残していますが、実はこれは儒者たちの創作ではないかという説もあります。儒教は堯・舜という聖王や周王朝を建てた初代の武王を理想化していますので、その武王が滅ぼした紂王をわざと暴君のように書いたのではないか、というのです。
儒家が描く紂王は妲己(だっき)という妃を溺愛、税金を重くして財宝を集め、酒池肉林(酒の池、肉を引っかけた木々)で飲み明かす。批判する者は、燃える火の上に油を塗った銅の棒を渡してその上を歩かせるという残酷さ。彼らがすべって火の中に落ちるのを妲己と一緒に眺めて喜んだと伝えられています。
紂王悪人創作説によれば、本当の紂王は国のために東南地方に遠征し祖先への祭祀も怠らない立派な王だったということですが…
殷と商の違い
殷はなぜ商とも呼ばれるのか。殷という王朝の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる集落で、その邑のうち大きなものが内城や外城を備えた城郭都市を形成しました。これらの邑のうち、「商」という名の大きな邑が他の邑を服属させて作った国家が殷です。そこで殷は商とも呼ばれています。
「商」という漢字は中国語の辞書では1番目に「相談する」という意味があり、その次に「商売する」という意味が来ます。「相談する」と「商売をする」では意味のつながりが薄く、なぜ「相談する」という意味から「商売する」という意味が派生したのか不思議です。
実は「商売する」の「商」はこの殷のことなのです。殷が周に滅ぼされた後、殷、つまり商の遺民は流民となってよその地に流れていきました。田畑を失った彼らはモノの売り買いで生計を立て、こうした仕事をする人を「商の人」つまり「商人」と呼ぶようになったということです。こうして「商」という漢字に「商売する」という意味が加わりました。
殷王朝のエピソード1…初代湯王の人となり
殷の初代王である湯王・大乙は徳のある王だったといわれています。
ある時湯王が郊外に行くと、周りに網を張り「上下左右すべての鳥はわしの網にかかるように!」と祈っている男に出会いました。王はこれでは鳥が絶えてしまうと思い「左に行きたい鳥は左に、右に行きたい鳥は右に、わしの言うことを聞かない鳥だけこの網にかかるように!」と祈らせました。諸侯はその話を聞き、夏の桀王は暴君だが湯王の徳は動物にまで及んでいると感銘を受け、その後諸侯は湯王に付き従い、こうして湯王は夏の桀王を討ち破って殷王朝を建てることができたといわれています。
殷王朝エピソード2…殷王朝の城壁は今も残っている!
殷王朝第10代王のとき都を今の河南省鄭州に移しました。鄭州にある現在の城壁は戦国時代の城壁を利用しており、さらにその城壁は殷代にあった城壁の南半分を利用したものだといわれています。殷はBC.1050年頃に滅亡していますから、約三千年前の城壁が河南省鄭州には今も残っていることになります。
殷王朝エピソード3…婦好墓
「婦好(ふこう)」の名は甲骨文にしばしば現れ、青銅器の銘文にも刻まれています。祭祀に奉仕する女性で第22代武丁の妃とも、その息子の妻とも言われています。ちなみに甲骨文はこの武丁の時代以降のものが発見されています。
彼女は殷王朝の最上層に属する高貴な女性ですが、数千の兵士を引き連れて遠征したという勇ましい人です。彼女の墓からは殉死あるいは人身御供(ひとみごくう…いけにえ)と見られる16人分の人骨が発見されています。この墓は盗掘を免れ、副葬品の豪華な青銅器や玉器が多数出土しています。代々の王の墓はほとんどが盗掘されていて副葬品の状況はわからなくなっていますが、妃の墓がここまで豪華ならさらに豪華だったことが想像できます。
殷王朝の青銅器
中国における青銅器はロンシャン文化期(BC.3000~BC.2000)に現れ、ロンシャン文化期に次ぐ二里頭文化期には青銅器武器や容器、楽器が出現しています。
殷代に入ると青銅器の制作技術は急速に進歩しました。青銅器は大きさが増すと技術的に難度が大きく増すことが知られていますが、殷代の遺跡からは1メートル以上の大きさで重さが800キロを超すようなものも発掘されています。
青銅器はBC.7000紀の西アジアに起源を持つといわれていますが、この技術が中国に伝わったものなのか、それとも中国独自に開発されたものなのかは今も論争が続いています。
中国以外の青銅器の制作方法は地金を叩いて形を作る「鍛造技法」によるものか、「脱臘法」(シール・ペルデュ)と呼ばれる技法によるかの2つですが、中国の殷代の青銅器はそのどれとも異なり、その技法は「陶模法」と呼ばれています。この技法はきわめて高度な陶芸技術や複雑で精密な工程を必要とします。
中国ではロンシャン文化時代すでに優れた陶芸技術があり、その前提の元に生まれた技術だと思われますただし「鍛造技法」によって作られた跡のある青銅器も存在し、どういう経路をたどって殷の優れた青銅器が作られるようになったのかは、前述のとおり今も謎です。
殷墟初期の婦好墓は未盗掘で、ここからは460に上る青銅器が発掘されていますが、これらの紋様は精密であるのに対して銘文は2~3文字に過ぎず、この時代には銘文鋳造技術がまだ未熟だったことがわかります。
これが殷墟末の時代になると3~40字の銘文がある青銅器が発掘され、この時代に銘文鋳造技術が確立したことが伺えます。