黄河文明・長江文明・中国文明【遺跡と文化ごとの解説】
かつて世界四大文明の一つとしていわれていた「黄河文明」は、近年「中国文明」という名前に置き換わろうとしています。
それはさまざまな遺跡が、黄河流域だけでなく、長江流域(長江文明)においても四川盆地においても発見されているからです。
漢民族による「黄河文明」ではなく、少数民族も含んだ「中国文明」である、という考え方は、諸問題多発の少数民族問題をにらんだネーミングであるともいわれています。
目次
- 1. 中国文明とは
- 2. 黄河文明とは
- 3. 長江文明とは
- 4. 政治的概念としての「中国文明」
中国文明とは
中国文明とは、紀元前に中国大陸の各地で発生した文化・文明の総称です。
かつては世界四大文明(エジプト文明・メソポタミア文明・インダス文明・黄河文明)の一つとして「黄河文明」が中国文明を代表するものでした。
近年黄河沿いだけでなく南方の長江沿いにも数多くの遺跡が発見され、これを「長江文明」と呼ぶようになりました。
最近では紀元前に中国大陸の各地で見られた文明の跡をまとめて「中国文明」と呼ぶようになっています。またこの名称は中国政府の思惑も入った政治的名称であるという考え方もあります。
黄河文明とは
黄河文明とは、黄河中流域と下流域を中心として、今から8000~7000年くらい前に現れた文明のことです。
この文明に属する遺跡とその文化の内容を以下に紹介しましょう。
裴李崗文化
裴李崗(はいりこう)文化は新石器時代初期(8000~7000年くらい前)の文化で、この遺跡からは石斧・石鎌・石鋤などが出土しています。アワやキビを栽培し、豚や羊を家畜として飼っており、紅陶・三足の鼎型土器を使っていたことがわかっています。
仰韶文化
新石器時代中期(7000~5000年くらい前)になると仰韶(ぎょうしょう・ヤンシャオ)文化が現れます。これは河南省の仰韶村で発見された遺跡で、赤色土器に黒色の彩文という彩陶で有名です。この文化は東の大汶口(だいもんこう)文化や南方の屈家嶺(くっかれい)文化とも関係があり、甘粛・山西・河北・河南・長江流域にまで影響が及んだと言われています。アワやキビのほか高粱(コーリャン)などの穀物を栽培し、豚や犬などの家畜を飼っていました。
龍山文化
新石器時代晩期(BC.2800~BC.2100年頃)になると、山東省を中心に龍山(ロンシャン)文化が現れます。ここの遺跡からは黒陶や卵殻陶が出土し、龍山文化といえば灰陶や黒陶で有名です。範囲としては河北中・北部から遼東半島・江蘇省北部まで広がっており、文字や青銅器・都市発生の要素が見られ、日干しレンガによる城壁らしきものが残っています。大汶口文化と重なる状況も見られます。
「夏王朝」の跡といわれる二里頭文化
BC.1750~BC.1520頃の文化遺跡・二里頭(にりとう)遺跡は河南省の洛陽平原で約2キロ四方に広がる場所にあります。いくつもの宮殿が整然と配置され、千人ほどの臣下を収容できる中庭や王が入場できる門などがあり、今も北京にある故宮と似た構造になっています。この宮廷における儀礼に使われた玉器や青銅器も出土し、宴席では細かな礼儀作法があったことも伺え、礼制をそなえた王朝の成立を物語っています。
現在この遺跡は「殷」に滅ぼされたという伝説の王朝「夏」王朝の跡ではないかと考えられています。
黄河流域に見られるこうした諸文化は、のちの殷や周の文化につながったといわれています。特にこれら黄河流域の諸文化に文字の萌芽が見られることは、中国文明が華北地帯を中心として発展していったことを示唆しています。
長江文明とは
長江文明と呼ばれる長江流域における考古学は20世紀後半から活発になり、その後短期間に数多くの、そして独特の文化を持つ遺跡群が発見されるようになりました。
長江文明に属する遺跡とその文化を以下に紹介します。
大渓遺跡や屈家嶺遺跡
旧石器時代(6500年くらい前)の遺跡としては長江三峡の上流の大渓遺跡や屈家嶺(くっかれい)遺跡があります。遺跡からは高度な稲作文化の跡が見られ、さらに漁業や豚・犬・鶏・羊などの家畜も飼われていた様子がわかっています。土器については形が定形化され、量産化もされていました。
河姆渡文化
河姆渡(かぼと)文化という7000年前の文化遺跡は1973年に浙江省で発掘され、ここからは穀物粒や木造建築の遺構、玉器、陶器、井戸の遺構などが出土しました。
良渚文化
同じ浙江省の太湖周辺の良渚鎮からは5000年前の遺跡群・良渚(りょうしょ)文化が発掘されています。この文化の範囲は広く5万平方キロに及び、ここでは水田による稲作が行われ、日干しレンガによる壁を持つ宮殿や神殿もあり、王や貴族が君臨した厳格な階級社会の存在や高度な文化を伺うことができます。
この高度な文化はBC.2000年頃突然崩壊してしまうのですが、その理由について気候変動による大洪水説を唱える学者もいます。その学者…四川省出身で京都大学で考古学を学んだ徐朝龍氏…によると、その後良渚文化の遺民は、越系民族の蚩尤(しゆう)部族とともに当時文化的に遅れていた黄河中流域に向かい、ここで黄帝の子孫と称する先住民と戦って敗れはしたものの中国最初の王朝・夏王朝に文化的影響を与えたのではないかと言います。
三星堆文化
1986年、長江上流の四川省三星村から大量の青銅器が出土し、その中には後に「縦目仮面」・「立人像」・「金面人頭像」・「神樹」などと名付けられた、他の遺跡にはない独特な形の青銅器がありました。この遺跡は三星堆(さんせいたい)文化と呼ばれ、BC.2800頃~BC.800頃にわたる古代蜀王国の都ではないかと言われています。青銅仮面には目が飛び出ている不思議な形のものがあり、奇妙でありながらなんとも魅力的で、ここには、黄河流域中原の文化とも長江下流の文化とも異なる独自の文化があったことを感じさせます。
古代において蜀(四川盆地)は周囲を山に囲まれた孤絶の地であり、中国大陸の他の地域とは異質で言葉や文字も異なりました。この地で使われていた文字は「巴蜀文字」と呼ばれ、漢字とはまったく異なり、用途などにおいてインダス文字と似ているとも言われています。秦の始皇帝による中国統一とその政策によりこの地の言葉と文字は排斥され、また黄河中・下流域に住む中原の人々の移民によって、やがてこの地域は漢文化に同化していきました。
政治的概念としての「中国文明」
黄河文明や長江文明と呼ばれていた中国大陸各地で発見・発掘された文明の跡を、近年まとめて中国文明と呼ぶようになりました。
かつては黄河流域で生まれた文明が周辺に広がっていったと考えられていましたが、実は中国文明というものは、黄河流域でも長江流域でも、さらには華南の珠江デルタや長江上流の四川盆地、中国の東北地方や内モンゴル一帯など、複数の地域で同時進行的に発生したと考えられるようになっています。
費孝通(ひ・こうつう…1910~2005人類学・社会学者)はこうした状況を踏まえ、「中華民族」の文化すなわち「中華文明」という枠組みを考え、現在この考え方が中国政府によって対少数民族政策として採用されているといわれています。
中華民族とは中国大陸に暮らす56の民族(漢族と55の少数民族)の総称であり、この中華民族は新石器時代以降数千年の歴史を経て一体化されてきたという考えです。
この考え方は政治的な概念…中国は多民族の国であると同時に、それらが一体化した単一民族の国である…でもあります。
独立を求めるチベット民族やウイグル民族を牽制するための理論という見方もできるかもしれません。
黄河文明や長江文明という名称が消えて中国文明と呼ばれるようになった理由の一つとして、こうした政治色が反映されているということも押さえておく必要があります。