呂氏春秋【戦国時代の様々な思想を網羅した思想書】

呂氏春秋

呂氏春秋』(りょししゅんじゅう)とは戦国時代の諸思想を集めて編集した本で、王政(後の始皇帝)の相国であった呂不韋によって作られました。

呂氏春秋とは

呂氏春秋』は戦国時代の思想書で『呂覧』ともいいます。全26巻160篇。始皇帝の義父で相国(現代の首相に当たる)でもあった呂不韋(りょふい…?~B.C.235)が自分の食客である学者や思想家に編集させ、B.C.239(始皇帝8年)に完成しました。

26巻は十二紀・八覧・六論の3部に分かれ、十二紀は各巻5篇、八覧は各巻8篇、六論は各巻6篇から成り、十二紀の最後には編者の序にあたる序意が置かれています。

内容は多彩で、戦国時代の諸思想が網羅され、諸子百家のうち、内容が伝わっていない陰陽家や農家の説も入っています。

戦国時代中期の地図
戦国時代中期の地図。秦は左に位置しています。
年表
呂氏春秋は戦国時代に作られました。

『呂氏春秋』成立の背景

『呂氏春秋』を編纂した呂不韋は出身(衛出身説も)の商人で、後の始皇帝の父・子楚(後の荘襄王)を貧しい人質時代に見出してこれを秦王に押し上げ、荘襄王が亡くなると、まだ年少の始皇帝を秦王に立てて、自分は丞相として秦の政治を執りました。

彼は戦国の四君と同様、数千人の食客を持ち、この食客の中には数多くの学者や思想家がいました。

『呂氏春秋』は呂不韋がこれら学者たちに命じて編集させた本です。

この本は儒家道家墨家兵家法家・農家・陰陽家などの諸説を含んでいるため、「雑家」(ざっか)に分類されています。

諸子百家的な本の政治的背景

呂不韋が命じて編纂された『呂氏春秋』ですが、上記したように諸子百家的で、いろいろな思想が許容されていたことがわかり、始皇帝がまだ秦王時代(中国統一以前)の丞相だった呂不韋は決して法家的思想の持主ではなかったことが伺われます。

それはまた同時に、呂不韋が食客として集めた学者たちはさまざまな思想の持主だった、呂不韋はいろいろな考えの持ち主を集めたということがいえます。

そのことから、呂不韋にはおそらくはっきりとした政治思想はなく、さまざまな思想を配下の学者たちに討論させ、それが自然にまとまるところ、つまり道家のいう「無為自然の道」で政治を執り行おうとしていたのではないか、という説があります。

また『呂氏春秋』の中では道家の説が最も重要視されていることから、呂不韋はやや道家的な傾向があったともいわれています。

道家から法家へ

呂不韋による政治が行われていた時、彼が編纂させた本には諸子百家的多様性が見られ、後の始皇帝による苛烈な法家イデオロギーが見えなかったことには次のような説もあります。

後の始皇帝・当時は秦王政が二十歳を過ぎ成人に達した頃、彼は秦の古いみやこ雍(よう)に行って成人式を行いました。その隙に秦王政の母の愛人・嫪毐(ろうあい)が反乱を起こして雍攻撃を図ります。秦王はそれを密告によって知り、逃げようとした嫪毐一派を全員処刑、母は幽閉、母と嫪毐の間に生まれた2人の子供の命も奪います。

この事件の後、呂不韋と母が愛人関係であったことが暴露され、呂不韋は失脚、後に自殺します。こうして呂不韋時代は終わり、彼が誇った数千人の食客たちも秦を追われました。

この後に登場したのが、かつて呂不韋の食客だった李斯です。李斯は荀子の元で儒学を学び、後に法家の学を信奉するようになりました。呂不韋の食客を経て、秦の役人になり、秦王政に重用されるようになりました。

秦王政が韓非子の法家思想に傾倒したこともあり、こうして秦国、後の秦帝国は呂不韋時代の道家的傾向から法家思想へとそのイデオロギーを大きく変えるようになった…という説です。

この説が正しければ、もし呂不韋のスキャンダルが表に出ずに呂不韋政権が長く続いたならば、秦王朝はゆるやかな道家イデオロギーによって統治され、後の中央集権国家も登場せず、中国の歴史も変わっていたかもしれません。

『呂氏春秋』の評価

『呂氏春秋』は全体の構成も、文章構造も整然としており、当時の文学として完成度の高い作品と見なされています。

呂不韋はこれが完成すると、これを咸陽の都門に置いて、その上に千金を懸け、この書に1字増やすか減らすかできたものがいたら、千金をやろうと豪語しました。つまり修正すべきところを見つけた者がいたら褒美をやろうということでしょうが、それができた者は1人もいなかったといいます。

また諸子百家のうち、陰陽家と農家の内容を今に伝えているものはこの『呂氏春秋』だけなので、その点でも高く評価されています。