鄭和【15世紀初めに大航海を行った明の武将】

鄭和

鄭和(ていわ)は15世紀の初め、明の時代に当時世界最大の船隊を率いて、東南アジアからインド洋、ペルシア湾を経てアフリカの東海岸まで、7度にわたって大航海をした武将です。

鄭和とは

鄭和
鄭和像。

鄭和(てい・わ…1371~1434)は、雲南省のイスラム教徒の子供として生まれ、後に元の残存勢力との戦いの中、明軍によって南京に連れ去られます。後に宦官として明の成祖・永楽帝に仕えました。永楽帝の命令で6回、その孫の宣徳帝の命令で1回、合わせて7回、1405年から29年にわたって、ジャワ・マラッカ・スマトラ・セイロン・コーチン・カリカット・ホルムズなどまで航海し、分遣隊は東アフリカまで行っています。各地で交易をし、明朝への朝貢を勧め、明と各国との交流を深めました。鄭和は最後の航海をした1年後に亡くなりました。ヨーロッパの大航海時代に先立つこと80年の偉業でしたが、宦官という身分もあって大きく顕彰されることはありませんでした。

年表
年表。鄭和は明の時代に活躍しました。

鄭和の生い立ち

鄭和の故郷
鄭和の故郷にある湖。

鄭和は雲南省昆明市の貧しいイスラム教徒の家に生まれました。元の姓は馬。この苗字はマホメットにあやかっており、中国のイスラム教徒の多くが馬という姓だといわれます。

中国のイスラム教徒は唐代以降中国に移住しており、特に元代の雲南省はほとんどがイスラム教徒でした。

曽祖父の名前は拝顔(バヤン)といい、この名前からは西域出身者であることが伺われます。バヤンは元朝の初め、フビライ汗による治世の頃、西域から雲南に移住してきたと考えられています。

バヤンの子が馬哈只(マ・ハジ)、その子もまたマ・ハジと名付けられ、これが鄭和の父です。

ハジはアラビア語のhajiで、メッカに巡礼した人という意味です。

鄭和が生まれた頃はすでに元は滅び明の時代でしたが、雲南省はまだ元の残存勢力が支配していました。

鄭和の父親は鄭和が12歳の時に亡くなっています。その後鄭和は北京に行き明王朝の宦官となるのですが、なぜそういう人生を辿ったのかはわかっていません。

ただ以下のような状況ではなかったかと推測されています。

鄭和の父が亡くなった頃、元の残存勢力が支配していた雲南に明の軍隊がやってきてこの地を征服しました。

この戦乱の中12歳の鄭和は明軍によって南京に連れていかれ、ここで宦官にされた…と考えられています。

当時被征服者が征服者によって宦官にされることは当たり前のことでした。男の子である以上12歳でもこうしたことから逃れることはできなかったのでしょう。

源義朝の子、頼朝や義経が父の敗死後、島流しにされたり僧侶とすべく寺に預けられたのと同じなのかもしれません。

鄭和はその後北京にあった燕王(のちの永楽帝)の藩邸に送られ、やがて才能を発揮して人々の注目を集めるようになります。

その後「靖難の変」という明朝の跡目争いが起こり、鄭和はこれに従軍して戦功を立てました。

この争いに勝利して燕王から皇帝となった永楽帝は、彼に鄭和という名と宦官として最高位の官職を与えました。

鄭和がどのような人物であったか、同時代の人がこう書いています。

「彼は背が高く恰幅がよく、眉目秀麗で貴相であった。歩く姿は虎のようで、声はりょうりょうとしていた」。

宦官という卑職のイメージからはかけ離れた堂々たる体躯や雰囲気の持ち主だったようです。

鄭和は智略あり、兵を知り、戦いを習い、雄弁と機略も併せ持っていたといいます。

やがて鄭和は成祖・永楽帝に認められ遠征船隊の司令官に任命されました。

最初の航海

鄭和は海外との交流に関心を持つ永楽帝の命令で7度にわたる航海に出ましたが、最初の航海は1405年のことです。永楽帝の命による航海の目的は諸外国との交易だったと考えられています。

鄭和は、全62隻の帆船に27800人以上の乗員を載せ、蘇州の劉家港を出発しました。

帆船は季節風を利用しました。

中国から西に向かうには冬東北の風にのり、西から中国に戻る時は夏西南の風にのったといいますから、この年の冬出発したのでしょう。

当時中国~ペルシア間は順風であれば90~100日で到着したということですが、貿易船なら寄港の日数等を入れて1年がかりで往復2年。鄭和の船も往復2年をかけて行き来しました。

帆船のうち大きなものは長さ150メートル、幅62メートルあり、現在の船なら8000トンレベルになります。ここに1隻平均450名の乗員が乗りました。

これは当時世界最大規模の船で、外洋の波にも逆風にも耐えることができました。こうした大きな帆船が62隻連なって大洋を渡り、沿岸の国々に明帝国の威容を示しました。

最初の停泊地はチャンバ、次にジャワ。ここには中国の広東省や福建省から移住したおおぜいの中国人が住んでいました。彼らは宋末の混乱や元朝における異民族支配から逃げてきた人々の子孫でした。

次にバレンバン。バレンバンにも広東などから移住してきた中国人がたくさんいて、その中には海賊となって勢力を振るっている人物もいました。鄭和は同じ中国移民の要請を受けてこの海賊グループ5000人を滅ぼし、この地の貿易の安全を守りました。

さらに船団はマラッカ、アルー、スマトラ。そしてセイロン、キーロン、コーチンと進んでいきます。最終地はカリカットで、このカリカット(現コーリコード)がこの航海で最も中国から離れた場所でした。

カリカットは中国語で古里と書かれ、インド貿易の中心地、宋や元の時代から中国の商船が多数やってきていました。

鄭和はカリカットで成祖永楽帝の詔勅と銀印をここの国王に進呈し、来航の記念碑を立てたといわれています。貿易だけでなく交流を求めたことがわかります。

2度目の航海

1407年から1409年にかけて、鄭和は永楽帝の命によって2度目の航海を果たし、この時はジャワ、カリカット、コーチン、シャムに行ったという記録が残っています。

またセイロンのガレでは1911年に、1409年に建てられたこの航海の碑が発掘されています。

その碑には漢文で、鄭和たちが船旅の無事への感謝と今後の航海の安全を願って仏寺で供養をしたことが書かれています。さらにはタミール語でヒンズーの神への祈りが、ペルシャ語ではアラーの神への祈りが書かれていました。

このことからは、鄭和がさまざまな民族の宗教への配慮をすることで貿易を円滑に進めようとしたことが伺え、後にヨーロッパがアジアに進出した際、キリスト教の布教を強力に推し進めようとしたやり方との違いがわかります。

3度目の航海

1409年、第2回の航海から戻るや、鄭和はまた永楽帝の命により第3回目の航海に出発しました。

今回の行先は2回目と同じでしたが、当時シャムの圧力を受けていたマラッカに対してこれを保護するようにという役目を永楽帝から与えられていました。鄭和はその役割を立派に果たし、この後マラッカは明の朝貢国となりました。

朝貢(ちょうこう)とは、古代中国王朝による貿易の一種で、周辺国の王が中国の王朝に貢物を献上し、中国側が恩恵として返礼品を贈るというものです。周辺国は多大なメリットを享受し、中国側はメンツは得るものの大きな損失を出します。

この航海からの帰途、鄭和はセイロン国王の攻撃を受けそうになりますが、逆襲して国王を捕虜として明に連れ帰りました。

4度目の航海

1413年、鄭和は永楽帝の命により4度目の航海に出ました。今回の目的地はインドより先の国々も含まれました。

西安(かつての長安。明初に西安と改名)の清真寺(モスク)にある石碑の碑文に「…鄭和は天方国(メッカ)に使いするにあたり、本寺の哈三(ハッサン)を通訳として随行した…」と書かれています。ハッサンはペルシャ語の通訳だったと考えられています。

途中スマトラで内紛に遭遇し、鄭和は一方の味方をして戦っています。

この航海での最後の目的地はホルムズ国で、鄭和が訪れた国の中で最も西にある国です。

ホルムズはややこしい場所で、もとは海に面した都市でマルコ・ポーロは鄭和に先立って13世紀にここを訪れています。

ところが14世紀からは場所を移し、元ホルムズから60キロ離れた島にこの時のホルムズはあり現在に至っています。

かつては王国でしたが、今はイランの一部です。

旧ホルムズ(大陸側)も新ホルムズ(島)も古来東西交流の要衝の地で、ペルシャ湾とオマーン湾の間にあり、この島が面する非常に狭いホルムズ海峡は、現在多くのタンカーが行き交うと共に海賊が出没したり、アメリカとイランの睨み合いの場でもあります。

日本が自衛隊を派遣するかどうかでも話題になりました。

当時ホルムズ王国は真珠、ルビー、エメラルドなどさまざまな宝石を産出し、鄭和は絹織物や陶磁器を代価としてこうした宝石類を手に入れました。

ホルムズ国王は鄭和の勧めに従って明に朝貢することに同意しました。ホルムズ王は使節を明に送ることにし、アラビア馬やライオン、キリンを明に献上しました。

この時の航海では分遣隊が東アフリカまで行き、招きに応じて東アフリカのいくつかの国が明の朝貢国になりました。

5度目の航海

1416年5度目の航海の命令が下り、翌年航海に出たと考えられていますが、記録がほとんど残っていません。この時与えられた任務は明朝にやってきていた各国の使節を本国に送り届けることでした。

6度目の航海

1421年鄭和に6度目の航海の命令が下りました。この時の主要な任務も各国使節を本国に送り届けることで、交易は含みませんでした。

5次6次とも本隊から分かれた分遣隊がアフリカまで行っており、その記録が残っています。

そこには東アフリカのいくつかの国について描写されており、「…民家は4~5階建ての石造りで、台所や便所も整備されている。…女性はさまざまな装飾品をつけ、出かけるときは頭に布をかぶり薄絹で顔を隠して皮靴をはく…風俗は純朴である…」など、未開なアフリカといった印象はまったくありません。

当時の東アフリカの貿易都市はインド産出品とアフリカ産出品の中継貿易で繁栄しており、そこに中国の絹織物や陶磁器が加わり一層繁栄しましたが、後にヨーロッパ人、特にポルトガル人による略奪や破壊によって衰退していったといわれています。

7度目の航海

1424年に永楽帝はモンゴル親征からの帰りに病没します。

あとを継いだ仁宗・洪熙帝は父の対外政策に対して財政の見地から反対でしたので、鄭和の航海も含めて対外政策を停止しました。

けれども仁宗はまもなく亡くなり、宣宗・宣徳帝が即位します。宣宗は文武両道に才能ある帝で、祖父・永楽帝の遺業の継承に積極的でした。

こうして1430年、鄭和は宣帝の命により7回目の航海に出発します。今回も鄭和はホルムズまで行き、別働隊はメッカまで行きました。さまざまな珍しい宝物や、キリン、ライオン、ダチョウなどを買い求めて帰国したと記録にあります。

以上全7回の航海は「鄭和の西洋下り」と呼ばれています。29年にわたる大航海でした。

鄭和に招かれて国王が明を訪れた国は4カ国、明に使節を送った国は34カ国で、これについて『明史』は「明初の盛事」と書いています。

永楽帝の目的

永楽帝が鄭和に命じて大航海をさせた目的については以下のようにさまざまな意見があります。

1.永楽帝は建文帝から帝位を簒奪しますが、その後建文帝は行方がわからなくなります。そこでその捜索のためという意見。

2.明の太祖に刃向かった海賊たちが他の海賊、倭寇などと結びつかないようにするため、彼らを見つけ出そうとしたという意見。

3.諸国と軍事同盟を結ぼうとしたという意見。

4.朝貢国を増やすためという意見。

5.国外市場の開拓が目的だったという意見。

6.民間貿易は国民に禁じていたので、王朝による朝貢貿易を拡大するのが目的だったという意見。

キリンが来た

第4次、第5次航海の際、鄭和はキリンを連れて明に帰ってきました。

キリン以外にも中国人が見たことのないいろいろな珍獣を連れ帰ってきたのですが、明王朝を最も喜ばせたのはキリンでした。なぜなら伝説の聖獣・麒麟(きりん)と名前が似ていたからです。

私たちが動物園で見る、首の長いキリンの名は東アフリカのソマリアで使われていたソマリ語の「ギリン」から来ています。

このギリンに麒麟の名をつけて朝廷に持ち帰ったのですが、なぜそんなに喜ばれたかというと、麒麟は想像上の動物ですが、温和で長命の聖獣で、為政者が善政を施した時にこの世に現れるとされていたからです。

朝廷付きの詩人が「これは天が聖徳を顕彰し、王化の大成をなそうとしているからであり、誠に万世無窮の慶びでございます」と、キリンの到来を美辞麗句で飾っています。

ところでいわゆる麒麟と首の長いキリンは形が似ているかというと、実は似ても似つきません。

麒麟とはどんな姿かというと、キリンビールのラベルの絵が麒麟です。ライオンの頭、虎の目、鹿の角に鹿の体、ドラゴンの鱗に牛の尾を持ち、火を吐いて雷のような声で咆哮する…という獣です。

栄光と悲劇の人・鄭和

第7次航海から帰国してまもなく鄭和は病没します。

鄭和は偉大な成果を挙げてその人生を閉じるのですが、その記録はあまり残っていません。鄭和自身が残したであろう記録も後に焼却されてしまったといいます。

その理由としては彼が宦官の身分であったことが挙げられます。

特に明朝では宦官の害が多くあったことから、鄭和の人と仕事を顕彰しようという動きはなかったようです。

鄭和が宦官でなかったならば、彼は不世出の英雄として中国の歴史にもっと大きな名を残したかもしれません。