夫差【諫言を聞き入れずに国を滅ぼした呉王の生涯・地図・年表】

夫差

夫差(ふさ)は春秋時代末期の最後の王です。隣国・王の勾践との数十年にわたる攻防で有名です。越から夫差攻略のために美女を贈られて寵愛しますが、この美女は中国四大美女の1人・西施だったと伝わっています。

※上の写真は夫差が父の闔閭(こうりょ)を葬った陵墓・虎丘です。

夫差とは

夫差(ふさ…?~B.C.473)は春秋時代末期の呉の王で、父は呉王・闔閭(こうりょ)。闔閭は『孫子の兵法』で有名な孫武伍子胥といった優れた軍師の補佐を受け、呉を強国に押し上げました。その後闔閭は隣国・越王の死を知って攻め込み、逆に越の奇計に引っかかって敗北。闔閭はこの時に受けた傷が元で亡くなりますが、死ぬ前に息子・夫差を呼んで越への復讐を遺言として残します。その後夫差は毎晩薪の上に寝て復讐心をかきたて、攻め込んできた越を敗北に追い込み、越王・勾践を会稽山に包囲しました。夫差は勾践の命は保証する代わりに自分の下僕とし、勾践はこの屈辱に耐えて数年後越に戻りました。勾践は毎日肝をなめてその苦さに復讐心をかきたて、越の国力を高めようと日夜努力しました。一方の夫差はそうした越を眼中に入れず、北の中原諸国に出兵して覇者を目指し、越に備えるよう懸命に諫める伍子胥の意見を無視して逆に死に追いやりました。夫差の妄臣は越から賄賂を受け取り、夫差は越から贈られた美女(西施ともいわれる)に溺れ、呉の国力は次第に弱まっていきました。越の勾践は逆に賢臣たちのアドバイスをよく聞き入れて情勢を見定め、何度かの攻略の後に呉を滅ぼしました。夫差は勾践から小邑の領主になるよう勧められますが、断って自刎しました。

春秋時代の地図
春秋時代の地図。呉は右下に位置しています。
年表
夫差は春秋時代の呉の王です。

呉の歴史

呉は古い歴史を持つ国ですが、中原の漢民族の国ではなく、入れ墨に断髪という異民族の国でした。呉と争った越もまた異民族の国です。

呉の始祖は太伯(たいはく)と仲雍(ちゅうよう)の兄弟で、周王朝の血統に連なる人でした。この二人の弟である季歴の息子・昌(しょう)こそ周王朝の始祖・武王の兄の文王です。文王・昌は優れた資質を持っていたので、太伯・仲雍・季歴の父は昌に周国(周王朝以前の国)を継がせたいと思い、それを知った太伯・仲雍の兄弟は南方の蛮地に自ら去っていったのです。彼らは蛮地の習俗に合わせ、自分たちも入れ墨をし断髪をして、周国への野心がないことを示したのでした。彼らはその地に句呉(こうご)という国名をつけました。

蛮地の民は大勢が兄・太伯に帰服し、彼を呉の太伯としました。太伯には子供がいなかったので、彼の死後は弟の仲雍があとを継ぎました。

周の武王がを倒して周王朝を建てると、南方に去った2人の兄…太伯・仲雍の子孫を探し、見つけ出した当時の呉王・周章を周王朝の諸侯に封じました。

初代太伯から19代を経て寿夢の代になると、呉は勢力を増し、王を名のるようになりました。

父・闔閭

虎丘
闔閭の陵墓・虎丘。

さらに時代が下って公子・光(こう)…のちの呉王・闔閭の時代から呉は歴史に大きく登場します。

公子光は楚からの亡命者・伍子胥に刺客を紹介され、その刺客を放って呉王・僚を暗殺、自分が呉王闔閭となりました。闔閭は伍子胥や孫子(孫武)を軍師として、楚や越を討ちました。

この闔閭の子供が夫差です。

呉越の攻防と「臥薪嘗胆」

夫差は戦いに明け暮れる闔閭と共にや越を討ちますが、闔閭は越との戦いに敗れて負傷し、その傷が元でやがて亡くなりました。闔閭はこの時夫差に「越に復讐せよ」と遺言を残します。

その後の夫差は夜ごと薪の上に身を横たえて眠り、体の痛みに越への復讐心を新たにするのでした。これが故事成語「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん…仇討ちのために苦労する)の前句です。

夫差がこうまでして「打倒越」に燃えていることを知った越王勾践は、自分から先に討って出ようとしますが、賢臣・范蠡に止められます。「戦いは悪。仕掛けられたなら仕方がないが、こちらから先に討っては天の助けを得られません」。

が、初戦に勝った勾践はその言葉を振り切って出陣してしまいます。

やがて敗北。勾践は会稽山で呉軍に包囲され降伏します。勾践は命を助けてもらおうと側近の范蠡や文種などの知恵を借り、夫差の大臣・伯嚭(はくひ)にたっぷり賄賂を贈りました。

越の使者の命乞いを聞き、夫差は勾践の命を助けようとしますが、忠臣・伍子胥は「なりません」と一喝します。伍子胥は「天は越を呉に与えたのです。越王勾践は賢明な王であり、范蠡、文種など側近も優秀です。今越王の命を奪わなければのちのちの禍となりますぞ」と夫差を諫めました。

ところが賄賂をもらった伯嚭がすぐさまとりなし、勾践の命を奪う必要はないとかばうのです。

楚からの亡命者・伍子胥は一徹者です。自分の信じたところをあくまで夫差に諫言するのですが、夫差は耳障りのよいことを言ってくれる伯嚭に従うのでした。

こうして越王勾践は命は助けられて夫差の下僕となり、辛い2年間を過ごします。2年後ゆるされて越に戻ると、毎日苦い肝をなめて屈辱の日々を思い出し(「臥薪嘗胆」の後句)、必ずや復讐してくれようと、まずは越国の復興にいそしむのでした。

一方夫差は、春秋の覇者になって呉の基盤を安定させようと、北方諸国に兵を出し、越王の復讐の念など一顧だにしませんでした。伍子胥はこれを心配し、北に出兵などせず、越に備えるよう何度も諫言するのですが夫差は耳を貸しません。伍子胥は「このままでは呉は3年ともつまい」と愚痴をこぼし、それを耳にした伯嚭が夫差に「伍子胥は危険です」と讒言します。夫差はふだんから伍子胥がけむったくてしかたがなかったのでしょう。伍子胥に剣をおくって自害を命じます。

伍子胥は、「呉王よ、お前は誰のおかげで王になれたんだ!お前ひとりで国の経営ができると思っているのか」とカラカラ笑い、家臣に「わしが死んだら墓には梓(し…アカメカシワ)を植えてくれ。それで夫差の棺を作れ。わしの両のまなこはえぐりとって、呉のみやこの東門に置け。越軍が呉を滅ぼして入城するさまをその眼でとっくりと見てやろう」と言うと自刎して果てました。

それから3年、呉に残っているのは王へのおべっか遣いのみ。それを知った勾践は呉討伐を考えますが、范蠡は「まだその時期ではありません」と認めません。勾践は范蠡に従いました。

翌年、夫差が北方で諸侯と会盟(諸侯を集めて盟約すること)をするために呉を留守にし、呉には太子の他は女、子供、老人しか残っていないという情報が入り、勾践は再び范蠡に出兵の相談をしました。范蠡が首を縦に振ったので、勾践は5万の軍勢を引き連れて呉を攻撃し、太子の命を奪いました。

出先でそれを知った夫差は、他の諸侯に知られないように帰国し、越に和睦を申し入れました。越もまだ自分に力が足りないのを知っていたので、この和睦を受け入れました。

それからまた数年経つと、越はますます強大になり、勾践はたびたび呉を討ちました。そして勾践が会稽山で包囲されてから22年の後、越はとうとう呉を滅ぼしました。勾践は夫差の命を奪うことなく、百戸の邑を与えてそこの領主にしてやろうとしましたが、夫差は「わしはもう年を取って、越王に仕えることは無理だ。伍子胥の言葉に従わなかったためにこのザマだ。伍子胥に合わす顔がない」といって顔を布で覆って自刎しました。

こうして由緒ある長い歴史を持つ呉は、夫差をもってその歴史の幕を閉じました。

四大美女・西施との関わり

西施
西施。

中国に四大美女という言葉があります。中国の四大美女とは、西施春秋時代)・王昭君前漢)・貂蝉(三国時代)・楊貴妃(唐)のことで、このうち貂蝉だけは架空の人物ですがあとの3人は実在しました。

この西施はなぜ有名かというとその際立つ美貌以外に、呉越の攻防の時代に越の軍師・范蠡によって、仇敵・呉を倒すために夫差に贈られたという伝説があるからです。夫差は范蠡のネライ通り、絶世の美女・西施のとりことなって、政治をおろそかにし後の滅亡につながりました。

夫差の死後、西施は長江に沈められたとも、越に帰ったあとに越王の后に嫉妬されてやはり長江に沈められたともいわれています。

彼女の物語は民衆に知られ、語り継がれていきましたが、やがてハッピーエンドの物語も語られました。それは西施が夫差の死後、越に帰って范蠡の妻となり幸せに暮らしたというものです。

昆劇『浣紗記』では范蠡と西施のラブストーリーが演じられています。

西施の名前は『史記』中の呉の世家にも越の世家にもまったく出てきません。あるのは越が呉王夫差に美女を献上したという話だけです。ところが他の古い書物には美女として西施の名前が出てくるのです。『史記』に西施の名前が記されていない理由として、敵の王に美女を贈る、つまりハニートラップを仕掛けるというのは当時あまりに日常茶飯事で、その道具である女性の名前をいちいち書く必要はなかったからだろうといわれています。

越から夫差に美女が献上されたこと・西施も同様の身分だったが後に革袋に入れられて長江に沈められたこと・民衆に広くそのうわさが伝わっていたこと・西施の境遇が民衆に同情されたこと…などは事実なのかもしれませんが真偽ははっきりしません。

いずれにせよ、四大美女・西施の名前とともに夫差が記憶されているのは、2500年後の今日からすれば、ともすれば愚かで国を失った王として語られる夫差にとって光栄なことに思えます。