月氏・大月氏の歴史【古代モンゴル高原の遊牧民族国家】

月氏・大月氏

月氏(げっし)とは紀元前に中国の北方に存在した遊牧騎馬民族の国です。匈奴の襲撃を受け、西に移動すると「大月氏」と名のりました。前漢武帝の時代、張騫が月氏に派遣されたことをきっかけに西域の関係は深まっていきました。

月氏・大月氏とは

月氏」は紀元前3世紀から紀元1世紀ごろ、北アジアに存在した民族です。騎馬遊牧民族で、後に匈奴の攻撃を受けて分裂し、西に移動した集団を「大月氏」と呼びます。この民族はイラン系だったといわれ、広大な領地を持ち大きな勢力を誇っていました。父によって人質として月氏に送られたことがある冒頓単于の子・老上単于は月氏の王を討ち取って、その頭蓋骨を酒器とし、月氏の恨みを買いました。月氏が匈奴を挟み撃ちにしたいと思っているという情報を得て、前漢武帝が張騫を月氏に派遣します。張騫は往路と復路2度にわたって匈奴に捕まりながら13年かけて長安に帰還。月氏と共に匈奴を攻める策は実現しませんでしたが、これがきっかけで漢と西域との交易が始まりました。

秦・匈奴・月氏の地図
秦代の地図。月氏は左上に位置しています。
年表
月氏は戦国時代~後漢時代にかけて存在しました。

月氏

「月氏」(げっし…中国語音ではyuèzhī…ユエジーに似た音)は、「肉知」(中国語音ではròuzhī…ロウジーに似た音)とも書く国名の音訳で、漢字の意味とは関係がありません。

紀元前3世紀ごろ、中国大陸の北方にはモンゴル高原があり、ここの中心部には匈奴が、東には東胡が、西には月氏が勢力を張っていました。

東胡は現在の吉林省、黒竜江省あたりに勢力を持っていたツングース系の遊牧民族で、古代中国の春秋時代から漢初にかけて勢力を持ち、戦国時代にはしばしば国の北部を侵略していました。

月氏は当時、河西回廊(かせいかいろう…黄河の西側で、チベット高原北西部と接する細長い地域のこと)から甘粛省にかけて勢力を持っていました。

イラン系民族だといわれています。

シルクロードの要衝の地を勢力下に置き、当時内陸アジアではもっとも大きな勢力を誇っていました。

月氏は周代においては玉の産地を持つ西北の戎(じゅう…西の異民族を蔑んで呼んだ呼称)として知られており、この玉は「ホータン(ウイグルの和田地区)の玉」として有名です。

「ホータンの玉」とはホータンで取れたヒスイのことで、武帝に派遣された張騫が発見し、武帝に献上したと伝わっています。

月氏はもともと「敦煌と祁連山の間にいた」と『史記』に記されており、甘粛省の西端にあったとされてきましたが、実は紀元前3世紀の頃の月氏国はモンゴル高原から天山北麓、タリム盆地に至る広大な地域を有していたと考えられています。

ホータンの玉
ホータンの玉。白いことが特徴で和田玉とも呼ばれ、玉の中では最高峰のものとされています。

月氏と冒頓単于

紀元前3世紀、モンゴル高原の東には東胡、西には月氏という強大な勢力があり、モンゴル高原の最も有名な騎馬遊牧民族・匈奴はその間に挟まれていました。

始皇帝の時代の匈奴の王は頭曼単于(とうまん ぜんう)といい、その長男は冒頓(ぼくとつ)といいました。

頭曼は寵愛している側室の息子を後継者にしようと、冒頓を人質として月氏国に送りました。そしてその後月氏国を襲撃しました。

人質は送られた国にとっては襲撃を防ぐためのものですから、これに怒った月氏国はただちに冒頓の命を奪おうとしました。

これは実は頭曼の策略で、こうして息子の命を月氏の手で奪ってもらい、愛する女性の子供を王位につけようと思ったのです。

ところが冒頓は月氏の良馬に飛び乗ると無事匈奴に帰ってきました。

匈奴の民にとっては敵の攻撃をかわし、しかも騎馬遊牧民にとってもっとも貴重な宝である良馬まで奪ってきた男は英雄以外の何者でもありません。

頭曼は人民に英雄視されている息子の命を奪うわけにはいかず、これに一万騎を与え将軍に任じました。

冒頓はこれをチャンスと、部下を訓練し矢を放って父の命を奪い自らが単于(匈奴の王の称号)となりました。

隣国のクーデターを知った東胡はあれこれ難癖をつけて匈奴を滅ぼそうとしますが、逆に冒頓に攻め滅ぼされてしまいます。

勢いに乗った冒頓単于はBC.206年頃と、その30年後のBC.176の2回にわたって西の月氏も打ち負かしました。

冒頓の子の老上単于の時代には3回目の攻撃をして月氏の王を討ち取り、その頭蓋骨を酒器としたといいます。

こうして大きな勢力を誇った月氏は匈奴に併合され、その一部は中央アジアの西に逃れて大月氏を建て、他は今の青海省にとどまって小月氏となりました。

月氏と張騫

武帝(在位BC.141~BC.87)の時代、漢はそれまでの対匈奴屈従政策をやめ、潤沢な財政をバックにこれを攻略する方向へ舵を切りました。

その頃匈奴によって王の命が奪われたばかりか屈辱的な扱いを受けた月氏は復讐心に燃え、どこかの国と連合して匈奴に一矢報いたいという思いを持っていました。

この情報を得た武帝は我が意を得たりとばかりに、月氏と組んで匈奴を攻めようと、それを月氏に伝える使者を求めました。

すると張騫(ちょう・けん)という下級役人が名乗りをあげました。

武帝は100人ばかりの従者をつけ、張騫を月氏…その当時は大月氏に派遣しました。

遠い道のりであり、また大月氏国にたどり着くまでには匈奴の支配下にある道を通らなければなりません。匈奴に見つかれば命がないでしょう。張騫はそうした危険なルートをたどって大月氏国に向かったのですが、果たして途中で匈奴に捕まってしまいました。

匈奴にとって漢からやってきた張騫は貴重な情報源です。彼は匈奴の地で妻も与えられ10年の日々を過ごしました。

10年の後張騫は匈奴のスキをみて、従者一人と匈奴の妻を連れて脱走します。10年という日々彼は絶えず脱走のチャンスを狙っていたのです。

脱走に成功した張騫一行はなんとか大月氏国にたどり着きました。ところがあれほど匈奴への復讐心に燃えていた大月氏では、すでに当時の恨みを忘れ果て、漢と同盟する気持ちは消えていました。

10年もの忍耐は実ることなく、張騫はむなしく漢に戻ることになりました。

ところがその帰り道、張騫はまたもや匈奴につかまってしまいます。

けれども今度も張騫はスキを見て一年後に漢の都・長安に戻ることができました。

長安を旅立ってから10数年の月日が経っており、出発時の100人の従者はたった一人になっていたといいます。

張騫のこの大月氏への旅がきっかけとなって、漢は西域と交流を深めるようになりました。

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