六韜(りくとう)【源義経が奥義を得たと伝わる兵法書】

六韜

六韜』とは、古代中国・代の武王の軍事、経済顧問だった太公望呂尚が書いたとされる兵法の書です。日本にも古くから伝わり、藤原鎌足や源義経が愛読したといわれています。

六韜とは

六韜』(りくとう)とは兵法の書のことで、日本では魚釣り愛好家の代名詞として知られる太公望が書いたとされています。太公望は、本名を呂尚といい、紀元前11世紀ごろのの軍師で、春秋戦国の大国・の始祖です。

『六韜』は「文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜」の6巻60編からなっており、呂尚が周の文王や武王に兵法や政治について教えるという体裁になっています。

『六韜』には相矛盾する軍学思想が入っているといわれ、周代初期の呂尚による著作ではなく、その名を使った後世の偽作説が濃厚です。

孫子の兵法』が孫武の著作であることが確定した「銀雀山」漢墓(代の墓)の出土品からは『六韜』の一部と思われる文献が出土していますが、竹簡の破損により解明は進んでいません。

なお『六韜』の「韜」という難しい漢字は、剣や弓などを入れる袋を意味します。

ちなみにこの漢字は「韜光養晦」(とうこう ようかい)という有名な言葉にも使われています。韜光養晦とは「才能をひけらかさず静かに徳を養う」という意味ですが、鄧小平が80年代に唱え、「中国はしばらくは自分の実力を見せびらかさず、地味にやっていこう」という意味で使われました。

年表
年表。六韜は周代に書かれたと言われています。

太公望・呂尚とは

『六韜』の著者とされる太公望・呂尚は、周王朝の文王(BC.1152~BC.1056…周王朝の始祖)との関わりで有名です。

司馬遷の『史記』に、呂尚は「東海のほとりの人で老齢になるまで貧しい暮らしをしていた」と書かれています。

彼の先祖は(う…伝説上の帝。夏王朝の創始者)の治水を助け、虞(ぐ…伝説の帝「」の時代の王朝)・夏の時代に呂(りょ…河南、南陽の西)に封じられ、以降この一族は呂という姓を名のるようになったということです。

周の西伯(のちの文王)が狩りに出かける前に亀甲で占うと「獲物は竜にあらず、彲(みずち…ツノのない竜)にあらず、虎にあらず、羆(ヒグマ)にあらず。獲るものは天下取りの助けになる人物である」という卦が出ました。

すると狩り場に行く途中、渭水(いすい…黄河の支流)のほとりで釣り糸を垂れている老人に出会いました。

しゃべってみるとなかなかの人物。そこでこの老人を車に乗せて連れて帰って「このお方こそ、父君太公が我が周を繁栄させてくれる人だと待ち望んでいたお方だ(太公望)だ」と周囲に伝え、自分はこの老人に師事することにしました。この老人こそが呂尚で、彼はこうして「太公望」と呼ばれるようになりました。

太公望は亀甲のお告げの通り、軍事にも経済にも優れた才能を発揮し、こうして80歳にもなろうという老齢の漁夫が後の周王朝において大政治家として活躍するようになったのです。

六韜の構造とおおよその内容

文韜…国家や政治の基本について

武韜…文韜に同じ

竜韜…将や兵などについて

虎韜…兵器や戦術について

豹韜…作戦について

犬韜…作戦・戦術・訓練などについて

『六韜』の内容は、太公望が文王や武王からの質問に答えるという形を取っていますので、具体的で面白いです。

日本でも牛若丸、のちの源義経が鞍馬山から脱出して、陰陽師の家から、陰陽師秘蔵の『六韜』を盗み出し戦術の奥義を得たという話が残っています。

それではそのうちのいくつかを以下で紹介しましょう。

エピソード1…勇を誇る将軍は挑発すべし

「勇にして死を軽んずるものは暴すべきなり」(竜韜19論将)

死ぬことなんか怖いものかと何かにつけて自分が勇敢であると触れ回るタイプの将軍は挑発して怒らせ、無謀な戦いに引きずりこむことだ。

「急にして心速やかなるものは久しくすべきなり」(同)

せっかちなタイプの将軍は持久戦にもちこんでいらつかせるといい。

いずれも武王が太公望に「将軍について論じる時の基準は何か」を聞いた時の資質と欠点について述べた中の話です。

将軍の個性に応じてまず心理戦をやるのですね。

この辺は『孫子兵法』の心理戦やそのための情報戦にも通じ、ある種の共通性を感じます。

この部分以外にも『孫子兵法』と共通するところは何か所もある一方、より古代的な神秘的な兵法も書かれていて、論に一貫性がないところから、後世の偽作とする説は納得がいくものです。

エピソード2…おおぜいの強い敵に突然出くわしてしまったら

「にわかに敵人に会うにはなはだ多くしてかつ武なり」(豹韜46敵武)

敵の陣地に入り込み、そこで突然おおぜいの敵、しかもやる気満々の敵に出くわしてしまったらどうしたらよかろう、と武王に問われた太公望は…どう答えたか。逃げるしかない場面、しかも場合によっては逃げても全滅という場面です。

「自軍の精鋭兵を左右にひそませ、戦車隊や騎兵は敵の襲来に備えさせます。敵が自軍の伏兵のいるところを通ったら左右から弓を射て、続けて戦車隊と騎兵隊が敵の前後から撃てば敵将は逃げます」

このように『六韜』は戦争の実情に即して具体的に答えており、この兵法の人気のありかを伺うことができます。

日本への影響と「虎の巻」

『六韜』は日本にはかなり早い時期に伝来し、藤原鎌足(ふじわら かまたり…614~669 飛鳥時代の政治家で大化の改新の中心人物。藤原一族の祖)は『六韜』を暗記するほど愛読したといわれています。

また源義経もまだ牛若丸と呼ばれていたころ、鞍馬山から脱出し、京都一条堀川に住む陰陽師宅に秘蔵されていた『六韜』を、その娘の手引きで盗み出し、全文暗記して戦術の奥義をものにしたと伝わっています。

もっともこれは歌舞伎、浄瑠璃で語られている物語ですので、事実だったかどうかはわかりません。

また教科書の参考書を「虎の巻」と言ったりしますが、この「虎の巻」は「虎韜」から来た言葉だといわれています。