『過香積寺』王維
『過香積寺』は、西安南の終南山山中にある寺を訪れた際の詩。叙景詩であるとともに、王維の仏教詩人としての一面を詠んだ詩でもあります。
ここでは『過香積寺』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である王維の紹介をしていきます。
『過香積寺』の原文
過香積寺
不知香積寺
数里入雲峰
古木無人徑
深山何処鐘
泉声咽危石
日色冷青松
薄暮空潭曲
安禅制毒龍
『過香積寺』の書き下し文
香積寺(こうしゃくじ)に過(よぎ)る
香積寺を知らず
数里雲峰(うんぽう)に入(い)る
古木(こぼく)人徑(じんけい)無く
深山(しんざん)何(いず)れの処(ところ)の鐘ぞ
泉声(せんせい)危石(きせき)に咽(むせ)び
日色(にっしょく)青松(せいしょう)に冷ややかなり
薄暮(はくぼ)空潭(くうたん)の曲
安禅(あんぜん)毒龍を制す
『過香積寺』の現代語訳
香積寺を訪(おとな)う
香積寺がどこにあるのかを知らないまま
雲湧く高山に深く分け入って数里
古木がうっそうと茂る中、人が歩いてできる小道もない
香積寺のこの鐘は深い山のどこから響いてくるのか
泉の湧き出る音は険しい崖にむせび泣くかのよう
青々とした松に射し込む日の光も冷んやりと
夕暮れの人なき淵のそばで
静かに座禅を組んで己が心の煩悩を制する
『過香積寺』の解説
題名…「香積寺」は「長安の南にある終南山(陝西省西安市長安区…標高2604メートル。標高は浅間山や日光男体山クラス)の山中にある寺。「過る」は「訪れる」。ちなみに「終南山」は白居易の『売炭翁』にも登場します。
第1句…「香積寺を知らず」は「香積寺がどこにあるかを知らない」。
第2句…「雲峰」は雲のかかった高い山。
第3句…「人徑」は「人が通ってできた細い道」
第4句…「深山」は「深い山」。「鐘」は「香積寺の鐘」。
第5句…「泉声」は「泉の流れる音」。「危石」は「そそり立つ岩」。「咽ぶ」は「むせび泣く」。
第6句…「日色」は「陽光」。
第7句…「薄暮」は「夕暮れ」。「空潭」は「人気のない淵」。淵とは、川などの流れがよどんでいる所を言います。「曲」は「ほとり」。
第8句…「安禅」は「静かに座禅をする」。「毒龍」は「人の心の中の煩悩、邪念」を指しています。
この詩は最後の2句が香積寺の僧侶の姿なのか、それとも王維自身の姿なのかで意見が分かれています。
自身が画家であり、情景をみごとに詩に描く王維らしさで読み解くのであれば、一人の僧侶が深山の淵のそばで座禅をしている一幅の絵と捉えることもできるでしょう。けれども王維には仏教詩人としての一面もあり、名前も維、字は摩詰(まきつ)。合わせて維摩詰(ゆいまきつ)と読めば、維摩経(ゆいまきょう…仏教経典の1つで、古代インドの大富豪・ヴィマラ・キールティ…漢訳は維摩詰…の物語が書かれています)の主人公の名前になります。
若い頃は天才肌の詩人でしたが、後に深く仏教に帰依したともいわれ、だとすると山の奥深く、人気のない淵のそばで静かに座禅を組んでいるのは王維その人ということになります。
『過香積寺』の形式・技法
五言律詩(5語を1句として全部で8句となる詩型)です。
「押韻」…峰・鐘・松・龍
『過香積寺』が詠まれた時代
唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。
『過香積寺』が詠まれたのは盛唐の頃です。
『過香積寺』の作者「王維」について
王維(おう・い…669?~761)
王維は現山西省出身。子供の頃から詩や書、絵、音楽すべてに優れた才能を見せる神童でした。若くして科挙に合格、順調なスタートを切りますが、その後まもなく左遷。理由ははっきりわかっていませんが、親しい人が失脚し、その巻き添えになったともいわれています。
40歳近くまで中央には戻れず、地方を転々とします。中央に戻ってからは宮廷詩人として人気を得、地位も安定しました。
その後安禄山の乱が起き、王維は安禄山に気に入られて彼のもとで働き、そのことが後に罪に問われます。危うく死刑を免れて再び唐王朝の役人生活に戻りますが、やがて仏教に深く帰依し、それが感じられる作品を書くようになりました。この詩がまさにそうした作品の1つです。
さてここで詠われている「香積寺」ですが、ここは唐の中宗の時代に(706年)に善導法師を記念するために建てられました。浄土宗発祥の寺といわれ、「天竺に衆香の国あり、仏の名は香積なり」という言葉から「香積寺」という名前が付けられました。
日本の浄土宗の開祖・法然(平安末期から鎌倉初期の僧侶)は善導法師の継承者とされ、法然によって香積寺は日本の浄土宗の発祥の地となっています。