『山中与幽人対酌』李白

『山中与幽人対酌』李白

山中与幽人対酌』は、盛唐の詩人・李白による詩です。山中において隠者と酒を酌み交わすという内容で、詩の中に会話があり、陶淵明の言葉がそのまま引用されているという面白い作風です。

ここでは『山中与幽人対酌』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である李白の紹介をしていきます。

『山中与幽人対酌』の原文

両人対酌山花開

一杯一杯復一杯

我酔欲眠卿且去

明朝有意抱琴来

『山中与幽人対酌』の書き下し文

両人(りょうじん)対酌して山花(さんか)開く

一杯一杯復(ま)た一杯

我酔いて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しばら)く去れ

明朝意有らば琴を抱いて来たれ

『山中与幽人対酌』の現代語訳

隠者と二人酒を酌み交わす。山の花は満開だ。

さあ一杯、そちらも一杯、それではまた一杯。

すっかり酔って眠くなった。君、ここはひとまず帰ってくれ。

明日朝、よかったら琴(きん)を持ってまた来てくれたまえ。

『山中与幽人対酌』の解説

題名…「対酌」は「互いに飲み交わす」。「幽人」は「隠者」。中国文学において「隠者」(乱世において自分の信念を貫くために、時の権力と距離を置き山林や農村に隠棲して生きた人)の代表的な人物は東晋(317~420)の陶淵明(365~427)。この詩の中では陶淵明の言葉がそのまま使われています。

第1句…「山花」は「山の花」「花開く」に「酔って顔が赤くなる」という意味があるという説も。

第3句…『宋書』「陶潜伝」(潜は陶淵明の名前)に陶淵明の言葉として「我酔欲眠、卿可去」(私は眠くなったから、君は帰ってよい)が記されています。

第4句…同じく『宋書』「隠逸伝」に「陶潜は音声を解しなかったが、素を持っていてそこに弦は張られていなかった。酒を飲んでほろ酔いかげんになると、その弦なし琴をつまびいた」とあります。面白い人ですね。弦の張っていない琴はもちろん音がでません。音声を解しなかったとありますから、もともと琴が弾ける人ではなかったのでしょう。でも歌心はあるのです。心に流れる琴のメロディのままにつまびいたのです。だったら弦なし琴はいらないのではないかと思うのですが、このナンチャッテ琴があってこそ遊びの世界に入っていけるのかもしれません。

ちなみにこの「琴」は「こと」ではなく「きん」と読みます。いわゆる日本でいう「お琴」ならば「筝(そう)」と書きます。「筝」は「柱(じ)」のある楽器で、「琴(きん)」にはこの「柱(じ)」がありません。音の響きが異なります。

こうして3句4句で陶淵明の言葉を引用して、そこにそのまま自分を重ね、この詩の中で李白はすっかり隠者になった気分を味わっているのでしょう。

第1句だけが情景で、あとはみな会話という面白い詩です。さらには後半2句が隠者・陶淵明の言葉の引用で、和歌の本歌取りの技法と似ています。短い詩が古典を引用することで、描こうとする時空間が広がるのですね。

若き日の夢、中央官庁で出世するという夢は40歳を超してやっと実現したのに、わずか2年で朝廷を追われ、李白は失意のまま50歳を迎えています。現実との折り合いをつけるには、同じく朝廷には早めに見切りをつけて隠遁の道を選んだ陶淵明がロールモデルとしてうってつけだったのかもしれません。ただ李白の場合朝廷側から追い出されているだけに、何か胸の痛みが伝わってくる感じもします。

『山中与幽人対酌』の形式・技法

七言絶句。「開・杯・来」で韻を踏んでいます。

『山中与幽人対酌』が詠まれた時代

唐の時代区分(初唐・盛唐・中唐・晩唐)

唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。

『山中与幽人対酌』が詠まれたのは盛唐の頃です。

『山中与幽人対酌』の作者「李白」について

李白
李白。

李白(りはく…701~762)

李白(701~762)は盛唐を代表する詩人、というより中国を代表する詩人です。

則天武后という女帝の時代に生まれ、蜀で育ちました。父親は豪商で、そのために李白は科挙を受けることができなかったという説もあります。商人は当時見下されていたのでしょう。ただそのお陰で李白は長い放浪生活においてお金に困ることはなかったようです。

李白は幼い頃からきわめて優秀、読書好きで有名でした。若い頃は任侠の世界や道士の暮らしにも興味を持っていました。

蜀は道教発祥の地といわれ、神仙思想が盛んな土地柄でした。この詩にもみられる隠者への憧れは子供の頃にすでに芽生えていたのかもしれません。

20代半ばで出世の道を求めて故郷を離れた李白は、それから十数年中国各地を旅して歩きます。科挙が受けられなくても有力者のコネがあれば、官僚への道が開かれるからです。

40代に入って、詩人としての李白の名声は朝廷にも届き、朝廷詩人として採用されます。時は玄宗皇帝の時代でした。

玄宗皇帝にも重用され、李白の官僚としての道は順風満帆に見えましたが、周囲からの嫉妬のせいなのか、彼の酒癖の悪さからだったのか、李白は2年で首になってしまうのです。すでに40代半ば。当時の平均寿命を思えば人生をやり直すには遅く、諦めるには早い微妙な時期、精神のバランスを取るのは難しかったことでしょう。この詩はそれから数年、50歳ごろの作品だといわれます。

隠者のように生きよう、あの偉大な陶淵明もそうしたではないか。李白は自分を陶淵明に重ねることで危うい心を支えたのかもしれません。

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