楽府

楽府

楽府は最初は唐王朝の武帝の時代に、民間から歌謡を収集するための役所として生まれました。やがて楽府の意味は時代の移り変わりとともに変遷していきました。

ここでは楽府の歴史・分類・作者などを紹介していきます。

楽府とは

楽府(がふ)という言葉には以下のように時代によってさまざまな意味があります。

(1)もとは漢の武帝の時代にできた音楽に関する役所の名前です。この役所は民間から歌謡などを集めました。その目的は朝廷の儀式音楽に使うということ、もう1つの目的は、以下「楽府と礼楽思想」で説明する「礼楽思想」に基づき、統治する各地方の民情を探るためでした。

(2)後に楽府に集められた各地の歌謡そのものを指すようになりました。

(3)やがて後の時代の詩人たちがこうした古代歌謡に似せて作った作品(「擬古楽府」といいます)も楽府と呼ばれるようになりました。

(4)さらに後になると楽府は一種の詩の形式と目されるようになり、擬古ではなく新しく楽府形式の詩が作られるようになり、これも楽府と呼ばれました。

(5)このようにして楽府はその意味をどんどん拡大し、やがては歌全体を意味するようになりました。

楽府と礼楽思想

楽府はもともと漢の武帝が設立した音楽に関する役所の名前でした。武帝は儀式音楽に必要な歌謡を民間から集めるためにこの役所を作りました。「楽府」とは「音楽を司る役所」という意味だったのでしょう。それにしても古代の政府が「音楽省」か「音楽庁」を設立したのですから斬新な感じがします。古代、音楽の地位はこんなに高かったのでしょうか。日本人からすると不思議な感じがしますが、実は高かったのです。

古代中国において、詩や音楽は単に芸術や娯楽としてのみ存在するものではなく、正しい音で民衆を道徳的に正しく導くものでもありました。正しい治世が行われていれば、その時代の音は楽し気で安らかであり、間違った治世で民衆が苦しんでいれば、その時代の音は哀し気であるはずだと考えられていました。こうした考えを「礼楽思想」といい、これは儒教からきています。

楽府の分類

宋代の『楽府詩集』(郭茂倩…かく もせん…による編集)において、楽府は以下12に分類されています。

(1)郊廟歌辞(こうびょうかじ)…朝廷における祭祀の歌

(2)燕射歌辞(えんしゃかじ)…朝廷の儀式や宴会の歌

(3)鼓吹曲辞(こすいきょくじ)…軍楽の歌

(4)横吹曲辞(おうすいきょくじ)…軍楽の歌

(5)相和歌辞(そうわかじ)…絃楽器・管楽器の演奏を伴う歌 

(6)清商曲辞(せいしょうきょくじ)…南朝の長江流域の民謡

(7)舞曲歌辞(ぶきょくかじ)…舞踊を伴った歌

(8)琴曲歌辞(きんきょくかじ)…琴の演奏を伴った歌

(9)雑曲歌辞(ざっきょくかじ)…8までの分類に入っていない伴奏付きの歌

(10)近代曲辞(きんだいきょくじ)…隋や唐代に作られた雑曲歌辞

(11)雑歌謡辞(ざっかようじ)…楽器の演奏を伴わない歌

(12)新楽府辞(しんがふじ)…政治批判の精神を持つ唐代に作られた歌

楽府のその後

漢代に始まった楽府は少しずつその中身を変えていきました。唐代になって作られた擬古楽府はすでに歌ではなくなり、読むものになったと考えられています。唐代の中頃に「詞」(ツー)という新しいタイプの歌謡が生まれ、歌謡としての楽府はこのあたりで「詞」にバトンタッチします。人間は常に歌を必要としてきたのでしょう。古代中国ではそれを楽府が担った時期もありますが、やがて唐代に入ると「詞」がそれを受け持つようになり、歌謡としての楽府は歴史から退場していきました。

詩のジャンルとしての楽府の作者

楽府を詩のジャンルとして確立したのは、魏の曹植…三国志の主人公・曹操の息子…です。その後、晋の陸機、宋の鮑照、梁の呉均、陳の江総などが続きました。唐代では李白杜甫、そして白居易にいたって『新楽府50首』や『長恨歌』、『琵琶行』など楽府の名作を生んでいます。

楽府詩集としては、上に挙げた北宋・郭茂倩編『楽府詩集』(100巻)が最も有名で充実しています。