『秋風辞』武帝

『秋風辞』武帝

秋風辞』は前漢の絶頂期をつくった武帝44歳の詩です。河東汾陰(現山西省)で土地神を祭った帰り、治世も早30年近く、漢王朝絶頂期でありながら秋風にふと感じた寂しさ、老いの予感が詠われています。

ここでは『秋風辞』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である武帝の紹介をしていきます。

『秋風辞』の原文

秋風起兮白雲飛

草木黄落兮雁南帰

蘭有秀兮菊有芳

懐佳人兮不能忘

汎楼船兮済汾河

橫中流兮揚素波

簫鼓鳴兮発棹歌

歓楽極兮哀情多

少壮幾時兮奈老何

『秋風辞』の書き下し文

秋風起こって白雲飛ぶ

草木(そうもく)黃落(こうらく)して雁(かり)南に帰る

蘭に秀(はな)有り菊に芳(かんば)しき有り

佳人を懐(おも)いて忘るる能(あた)わず

楼船を汎(うか)べて汾河(ふんが)を済(わた)り

中流に横たわりて素波(そは)を揚(あ)ぐ

簫鼓(しょうこ)鳴りて棹歌(とうか)発す

歓楽極まりて哀情多し

少壮幾時(いくとき)ぞ老いを奈何(いかん)せん

『秋風辞』の現代語訳

秋風が吹き白い雲が飛んでいく

草木は黄ばんで散り、雁は南に帰る

蘭は美しい花を咲かせ、菊には芳香がある

出会ってきた佳人の面影は消えることがない

屋形船を浮かべて汾河を渡ろうと

河を横切れば白波が立つ

船の中では笛や太鼓の音、舟歌の声

楽しみが極まれば哀しみが胸に迫る

若く元気な日々はあとどのくらいか、やがて来る老いをどうしたらいいものか

『秋風辞』の解説

表題:「辞」は韻文の1種。

第1句…「兮」は調子を整える言葉で、中国語では「シー」と読みますが、漢文では読みません。『楚辞』や楚調(『楚辞』の影響を受けた調べ)の歌に多く用いられるます。

第2句…「黄落」は木の葉が黄ばんで落ちること。

第3句…「秀」は「花」。

第4句…「佳人」は朝廷の美女説、賢臣説、土地を守る女神説などがあります。現代語訳では美女説を採りました。美しい花や宮廷の美女たちはまさに人生の歓楽を象徴するものでしょう。

第5句…「楼船」は「二階建て仕様の船」。「汎」 は「 浮かぶ」。「汾河」は山西省を流れている川の名前です。「済」は「渡る」。

第6句…「素波」は「白波」。

第7句…「簫鼓」は「縦笛と太鼓」。「棹歌」は「舟歌」。

第8句…「哀情」は「哀しみ」。

第9句…「少壮」は「若く血気盛んな年ごろ」。「幾時」は「いつまで続くことか」。「奈~何」は「~をどうしたらいいのだろう」。

武帝の詩はもの寂しげな秋の情景で始まります。

やがて美しい蘭の花や菊の香り、宮廷の美女たちの面影。

さらに汾河を渡る豪勢な屋台船とそこで奏でられる蕭や太鼓の音、舟歌の朗々たる声。

土地神への祈りの行事が終わって、ホッとした帝王や臣下たちの宴会の音がにぎやかです。

お酒も入っておおいに笑い楽しんだその時、ふと哀しみがこみあげてきます。

歓楽の時も必ず終わる、我が命も必ず終わりを迎える。

充実した気力で国を動かせるのもあとどのくらいだろう。老いを迎えたらどうしたらいいものか。

武帝は16歳で即位し69歳で亡くなっていますから、44歳といえばちょうどその治世の真ん中。活力もまだ充分みなぎっていた頃です。大帝国の権力を一手に握り、衛青や霍去病など自分が抜擢した天才将軍の活躍で、不倶戴天の敵・匈奴との戦いでは連戦連勝。張騫の活躍で西域との交流も始まり、領土は増え、順風満帆です。そのさなかに書かれ、まさに「歓楽極まって哀情多し」、歓楽の極みに不幸な晩年の予感がよぎったような詩です。

この頃から武帝は神仙思想に取りつかれていきます。始皇帝と同じく絶大な権力を握った人物は、不老長寿を夢見てこの世もあの世も支配したいと思うのでしょうか。老いへの不安がそれを一層かき立てたのかもしれません。

ともあれこの詩の最後の2句は、ある年齢以上になると人は誰しも多かれ少なかれ抱く感慨でしょう。

それだけにあの大皇帝にしてもそうなのかと、人の胸打つ詩文として後世に残ったのかもしれません。

『秋風辞』の形式・技法

この詩は全部で9句からできていて、漢詩といえば五言絶句や七言律詩が浮かぶ私たちにとっては9句というのはどういう詩型なんだろうといぶかしく感じます。実は漢詩の典型的な形式が出来上がったのは唐代に入ってからで、武帝の時代から700年も後のことです。

つまりこの詩は、絶句や律詩、五言や七言という私たちにおなじみの型がまだなかった時代に作られた韻文です。

詩句の間に「兮」という合いの手が入っていますが、これは中国語では「シー」と読み、戦国時代の楚の民謡の特徴です。楚の歌といえば屈原や『楚辞』が浮かびますが、『楚辞』の中の屈原や宋玉の詩にもこの「兮」が出てきます。

漢代になぜ楚の歌謡の特徴が?と疑問に思うところですが、戦国2大大国・秦と楚のうち、楚が秦に敗れ始皇帝の王朝が成立します。その後始皇帝が急死すると秦王朝はたちまち崩壊。項羽軍との一騎打ちを経て劉邦の漢が建ちます。劉邦も項羽も、さらには劉邦に付き従った大勢の武将も皆旧楚の人々でした。秦を倒したのは実は滅ぼされた楚の遺民だったのです。

つまり漢王朝初期の中心メンバーはみな楚出身で、彼らが詠う詩はどれも楚歌の特徴を持っていました。劉邦が建国後故郷に凱旋した時の詩、その前劉邦軍に包囲された時の項羽の『垓下の歌』、みなこの「兮」という楚民謡の合いの手が入っています。

この傾向は劉邦(?~BC.195)のひ孫で、前漢王朝第7代皇帝である武帝(BC.156~BC.87)の時代まで続いていたのでした。

また武帝のこの詩は、『楚辞』の中の宋玉の詩『九弁』の最初の2行の影響が色濃く見えるともいわれています。『九弁』は「悲しいかな、秋の気為るや。蕭瑟として、草木揺落して変衰す」という2行から始まります。「秋は悲しい」という日本の和歌にもある情緒が詠われているのです。

秋は本来収穫の季節、皆で歌い踊り豊作を喜び合う季節です。ところが平安以降の日本の和歌では「秋はもの悲しい」という歌がたくさん詠われています。

実はこれ、『文選』(もんぜん…古代中国の名文のアンソロジー・詞華集)を通して伝わったこの宋玉の詩の影響だといわれています。そうすると「秋はもの悲しい」は宋玉の詩が伝わった奈良・平安以降の日本の情緒ではあっても、それ以前からの日本固有の情緒ではなかったのですね。

けれども平安以降「秋はもの悲しい」は日本人の情緒として定着していきました。収穫の秋ではあっても、太陽の力も植物の生命力も次第に衰え、秋は確かにもの悲しい…日本人の腑に落ちる感覚だったのでしょう。

ところで「秋はもの悲しい」は万国共通の感情かと思っていましたが、イギリスの作家エミリ・ブロンテの『嵐が丘』後書きに「秋の木の葉が散っていく喜び」が詠われた詩が紹介されていて、それを読んだ時びっくりした記憶があります。当時中学生でしたが、木の葉が散っていくのを見るのはもの悲しいことだと思っていましたから。2千数百年前に生きた宋玉の影響力畏るべしです。

『秋風辞』が詠まれた時代

年表-前漢

『秋風辞』が詠まれたのは前漢の頃です。

『秋風辞』の作者「武帝」について

武帝
武帝。

武帝(ぶてい…BC.156~BC.87)

武帝は前漢王朝第7代皇帝でBC.140年16歳の時に即位し、前漢の黄金時代を築きました。国内では政治経済改革を進め、対外的にはそれまでじっと我慢していた匈奴の横暴に対し、愛妃(後の衛皇后)の親族であった衛青、霍去病を抜擢し連戦連勝の快挙を成し遂げました。西域に対しても積極策を打ち出し、国土を広げました。晩年は神秘思想に傾き、若い頃の英明さを失って、李陵将軍を匈奴に追いやったり、李陵をかばった司馬遷にむごい刑罰を与えたりしました。

詩や賦にもたけ、7首の詩が残っており、『秋風辞』はその1つです。

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