『望洞庭湖』孟浩然
『望洞庭湖』は、雄大な洞庭湖を詠った詩であると同時に、洞庭湖畔で宴席を設けた高官に、自分の任官を暗に求めた詩でもあります。
ここでは『望洞庭湖』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である孟浩然の紹介をしていきます。
『望洞庭湖』の原文
望洞庭湖 贈張丞相
八月湖水平
涵虚混太清
気蒸雲夢沢
波撼岳陽城
欲済無舟楫
端居恥聖明
坐観垂釣者
徒有羨魚情
『望洞庭湖』の書き下し文
洞庭を望み 張丞相に贈る
八月湖水(こすい)平らかに
虚を涵(ひた)して太清に混(こん)ず
気は蒸す雲夢(うんぼう)の沢(たく)
波は撼(ゆる)がす岳陽の城(しろ)
済(わた)らんと欲するも舟楫(しゅうしゅう)無く
端居(たんきょ)聖明に恥ず
坐(そぞ)ろに釣(つり)を垂るる者を観て
徒(いたず)らに魚(うお)を羨むの情(じょう)有り
『望洞庭湖』の現代語訳
洞庭湖を眺めて この詩を張丞相に捧げる
八月の洞庭湖は湖水が平らかで
湖の果ては空と混然一体となり
湖から立ち昇る蒸気は湖畔の雲夢の沢を蒸しているかのよう
波は傍らに建つ岳陽楼を激しく打ち
この湖を渡って向こう岸にたどり着きたいと思っても私には舟も楫もない
(朝廷で任官したいと思っても取り次いでくれる方がいない)
なすこともなくこうして暮らしているのは天子様に申し訳が立たない
釣り魚を垂れている人をしみじみと眺め
(任官させる権力を持っている方を拝見していると)
釣られていく魚を羨ましく思わずにいられない
(口利きで任官できた人を羨ましく思う)
『望洞庭湖』の解説
表題… 「洞庭湖」は湖北省と湖南省の境にある湖で、淡水湖としては中国で2番目に大きな湖です。大きさは琵琶湖の8倍、4つの長江支流が流れ込み、水産物が豊富で田畑も潤し、このあたり一帯に「魚米之郷」の美称を与えています。
「張丞相」は「張九齢(ちょう・きゅうれい…678~740…中唐の政治家で詩人)」を指します。この詩は一見情景詩のようですが、実は任官のお願いの詩です。前半は情景を詠い、後半は任官のための口利きをお願いしています。
第1句…「湖水平らかに」は「洞庭湖の水が平らに広がっている」。
第2句…「虚を涵す」は「洞庭湖の水が虚空に沁み込む」。「太清に混ず」は「大空と混じり合っている」。
第3句…「雲夢の沢」は「洞庭湖の北側にある湿地帯」。「気は蒸す」は「蒸気が(そこを)蒸している」。
第4句…「岳陽城」は「岳陽楼」のこと。洞庭湖の東北の海岸に建つ有名な楼閣。
第5句…「済らんと欲す」は「この湖を渡っていきたい」。言わんとすることは任官したいということ。「舟楫」は舟や楫(かじ)のことですが、ここでは「天子を助ける賢臣」の意味。
第6句…「端居」は「じっとして何もしない」。ここでは任官することができず、中央で活躍できない状態のこと。「聖明」は「立派な天子様」。この時代はちょうど玄宗皇帝の時代でしたから、玄宗皇帝を指しています。
第7句…「坐ろに」は「しみじみと」。「釣を垂るる者]は「釣り糸を垂れている人」。
第8句…「徒らに」は「虚しく」。「魚を羨むの情有り」は「釣られる魚が羨ましいと思う」。釣られる魚は、張丞相のお陰で任官できた人を指します。
終生中央での任官を求め続けた孟浩然ですが、最後までそれは叶いませんでした。中央で任官するには科挙に合格することと、有力者の手づるが必要でした。孟浩然は何度か科挙にチャレンジするのですが合格せず、詩のみごとさで中央の高官と交流を持ち、時の皇帝・玄宗皇帝とも面識があったものの、順調にはいきませんでした。人間づきあいに不器用なところがあったのではないかとも伝わっています。
この詩も洞庭湖の情景を描いた詩というより、時の丞相であり詩人でもある張九齢に、自分を推薦してくれるよう売り込んでいる詩です。洞庭湖で宴席が設けられた時に書いた詩のようです。
詩は洞庭湖の雄大な景色から始まっています。旧暦8月ですから秋になりかけていますが、まだ残暑は厳しく水のある所は蒸気がもうもうと立ち昇っています。そうすると広い湖の果ては空も水も似たような色で、分かれ目がわからなくなります。この情景が第1句2句3句ですが、今も洞庭湖では同じ景色…「虚を涵して太清に混ず」という情景を見ることができます。
4句目から話が転換し始めます。洞庭湖といえば岳陽楼。ここは三国志の時代、呉の参謀・魯粛が赤壁戦後、水兵の訓練を見る閲兵用やぐらとして作ったのが始まりだとか。
岳陽の町を取り囲む城壁の西の門で、絶景を見ることのできる場所として有名です。ここに波が激しく打ち付ける。この激しく波打つ洞庭湖を渡っていく舟も楫も私にはない…と詠って「私には中央で任官するためのツテがありません」と暗にほのめかしています。張丞相よ、どうぞ私に口利きをお願いします、というわけです。そして洞庭湖の岸辺で釣り糸を垂れる人を描写するかのように詠いながら、あなたもああやって人材を釣り上げていらっしゃるのでしょう。ああ、あなたに釣り上げてもらえる魚が羨ましい、どうか私のことも早く釣り上げてください、と続けるのです。
その結果は…やはり口利きのお願いはうまくいかなかったようです。この湖畔での宴会に優れた詩人は呼ばれ、その中に孟浩然も入っていたわけで文名はすでに高かったのでしょう。詩文を書く能力は任官する上で大事な能力でしたから、良いツテがあれば孟浩然も何とかなったのでしょうが…やはり何かが足りなかったのかもしれません。
『望洞庭湖』の形式・技法
五言律詩(5語を1句として全部で8句となる詩型)です。
「押韻」…平・清・城・明・情
対句…
第3句の「気蒸雲夢沢」と第4句の「波撼岳陽城」
第5句の「欲済無舟楫」と第6句の「端居恥聖明」
第7句の「坐観垂釣者」と第8句の「徒有羨魚情」
訳文を読むと対句の印象がつかみにくくなりますが、原文と書き下し文を眺め、原文の構造を見ると、対句であることがわかります。
『望洞庭湖』が詠まれた時代
唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。
『望洞庭湖』が詠まれたのは盛唐の頃です。
『望洞庭湖』の作者「孟浩然」について
孟浩然(もう・こうねん…689~740)
孟浩然は盛唐の詩人で、同世代の詩人…王維、李白、杜甫の中では最年長。李白は「先生」と呼んで孟浩然を尊敬していたといいます。
この時代の他の文人同様、科挙の試験合格をめざしますが、何度か受験して失敗。任官するには有名な人の口利きも大切で、いろいろな人と交流し、文名も高かったのですがうまくいきませんでした。晩年は諦めて故郷に帰って隠棲生活を送り、51歳で亡くなりました。
この詩はまだ何とか任官をめざして頑張っていた頃の作品です。