『江雪』柳宗元
『江雪』は中唐、山水詩の詩人・柳宗元(773~819)の五言絶句で、彼の代表作です。中国の山水詩は単に風景を詠む詩ではなく、そこには必ず詩人の思いが込められています。いわば山水に託して自分の心情を詠うのです。
『江雪』は優れた才能に恵まれながら、それを発揮できずに不如意の人生を送る失意や孤独、寂寥を詠った詩です。
ここでは『江雪』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である柳宗元の紹介をしていきます。
『江雪』の原文
千山鳥飛絶
万径人蹤滅
孤舟蓑笠翁
独釣寒江雪
『江雪』の書き下し文
千山(せんざん)鳥飛ぶこと絶え
万径(ばんけい)人蹤(じんしょう)滅(めっ)す
孤舟(こしゅう)蓑笠(さりゅう)の翁(おう)
独(ひと)り釣る寒江(かんこう)の雪
『江雪』の現代語訳
山々から飛ぶ鳥が絶え
道という道は歩く人もいない
孤舟にひとり蓑笠姿の老人が
雪降る川に釣り糸を垂らす
『江雪』の解説
第1句……「千山」は「山という山」、「見渡す限りの山」。雪がしんしんと降って、飛ぶ鳥もいない様子。
第2句……「万径」の「径」は「小道」。「万径」で「道という道」、「見渡す限りの道」。
第3句……「孤舟」は「たった1艘の小舟」。「蓑笠」はかつて用いられた雨具で、蓑は雨合羽、笠は頭にかぶるもの、どちらも稲わらなど植物を編んで作りました。
第4句……「寒江雪」は川に雪がしんしんと降る様子。
見渡す限り飛ぶ鳥も歩く人もいない。孤独感が身にしみる作品です。横に書いた作品を縦に眺めれば、左側には「千万孤独」、右側には「絶滅」の文字がいやでも目に入ってきます。
1句2句で遠く広く景色をとらえ、3句4句で小舟と蓑笠姿の老いた釣り人がフォーカスされて、広くて白い空間に人がぽつんといる姿が強調されています。
音も色彩も感じられません。
この作品は、柳宗元が朝廷での政治闘争に敗れて永州というへき地に追いやられた時のものといわれています。まだ30代の前半。挫折と孤独の深さが感じられます。
山水詩という自然の風景を詠った詩のジャンルに分類される作品ですが、山水詩には作者の心情が投影されています。
この作品は作者の孤独感があまりに深くて、一見味わい深い冬景色のように見えながら、むしろ墨で描いた抽象画のようです。
『江雪』の形式・技法
五言絶句(5語を1句として全部で4句となる詩型)です。
「押韻」…絶・滅・雪
『江雪』が詠まれた時代
唐詩が書かれた時代は、しばしば初唐(618~709)・盛唐(710~765)・中唐(766~835)・晩唐(836~907)に分けて説明します。時代の変化を表わすとともに、詩の持ち味の変化も表します。
『江雪』が詠まれたのは中唐の頃です。
『江雪』の作者「柳宗元」について
柳宗元(りゅう・そうげん…773~819)
柳宗元は唐代の中期に活躍した詩人・文章家です。下級官僚の子として長安に生まれ、21歳の若さで科挙の進士という試験に合格しました。進士に合格するのは極めて難しく、50代で合格しても「若い方」に入ったといいますからその難しさがわかります。その試験に21歳で合格したのですから、自分の能力への自負心、周囲の期待も大きかったことでしょう。
若く優秀な官僚として政界に入ったのち、改革派若手官僚たちのグループに属して政治改革を志したのですが、このもくろみは保守派によってつぶされ、リーダーの王叔文は死刑、柳宗元を含む賛同者たちはそれぞれへき地に左遷されました。
時に柳宗元33歳。左遷先は永州、今の湖南省です。中国史の中で、いわゆる漢民族文化の中心地は黄河中下流域で、ここを中原といいます。当時の湖南省は、じめじめと蒸し暑く疫病も多い異民族の地でした。風土も習慣も異なる地で、中枢を追われた柳宗元の心境は、失意、屈辱、怒り、悲しみ、寂寥など暗く沈んだものだったに違いありません。きわめて優秀で自負心も強かったでしょうから、その苦痛は人一倍だったことでしょう。『江雪』はそうした時期に書かれたものです。
柳宗元は唐代中期の詩人で、ジャンルとしては「山水詩人」。王維・孟浩然・韋応物とともに「王・孟・韋・柳」と呼ばれています。同じ山水詩人でも柳宗元の詩風は独特で、テーマは『江雪』的なものが多いです。33歳で失脚し、その10年後にいったん中央に呼び戻されていますが、その後再び、永州よりもっと遠い柳州(現広西チワン族自治区)の長官に任命されました。それから4年後に47歳で亡くなっています。失脚から死まで14年、この間失意の思いは胸から消えることはなかったのでしょう。ともすると落ち込み、怒りや寂寥、孤独に苛まれた人生だったのかもしれません。
詩人としての作品には『重別夢得』・『柳州榕葉落尽偶題』・『漁翁』などがあります。
柳宗元は詩だけでなく、文章も書いており、当時流行していた「四六駢儷体」(しろく べんれいたい)と呼ばれる装飾的な美文に反対し、自由な古文への復帰運動のリーダーでもありました。同じ主張をしていた韓愈とともに「韓柳」と並び称されました。
文章家としては「唐宋八大家」の1人であり、代表作に『永州八記』・『捕蛇者の説』などがあります。前者は彼が暮らした中国南部の風景描写、後者は庶民の視線で悪政を諷刺した作品です。『捕蛇者の説』は日本では漢文の教科書によく取り上げられています。