『洛神賦』曹植

『洛神賦』曹植

洛神賦らくしんふ』は、文武両道の天才の家系・曹操一族のひとりである曹植のです。洛水という川の女神への思いを歌った賦ですが、実は美しい兄嫁・曹丕の妻への恋情をうたったものだといわれています。

『洛神賦』といえばまた顧愷之(こ がいし…344頃~406頃…東晋の画家)によると伝わる『洛神賦図』が有名です。賦を絵物語にしたものですが、現存のものはすべて模写です。

ここでは『洛神賦』の原文・書き下し文・現代語訳・解説・作者である曹植の紹介をしていきます。

『洛神賦図』

洛神賦図

『洛神賦』の原文1

以下は曹植『洛神賦』の原文・書き下し文・現代語訳です。原文が長いのでいくつかに分けて番号を振りました。

黄初三年、余朝京師、還済洛川。古人有言、斯水之神、名曰宓妃。感宋玉対楚王説神女事、遂作斯賦。其辞曰、

『洛神賦』の書き下し文1

黄初三年、余京師に朝(ちょう)し、還(かえ)りて洛川(らくせん)を済(わた)る。古人言える有り、斯(こ)の水の神、名は宓妃(ふくひ)というと。宋玉(そうぎょく)の楚王に対(こた)えて神女の事を説けるに感じ、遂に斯の賦を作れり。其の辞に曰(いわ)く、

『洛神賦』の現代語訳1

黄初三年、私は朝廷に参内し、その帰り洛水という名の川を渡った。古人の言い伝えによればこの川の神は名を宓妃という。この話を聞いて、私はかつて宋玉が楚の襄王に述べた神女の話を思い出し、それを賦に作った。

『洛神賦』の原文2

余従京城、言帰東藩。背伊闕、越轘轅、経通谷、陵景山。日既西傾、車殆馬煩。爾迺税駕乎衡皐、秣駟乎芝田、容與乎陽林、流眄乎洛川。於是精移神駭、忽焉思散。俯則未察、仰以殊観。覩一麗人于巌之畔。迺援御者而告之曰、爾有覿於彼者乎。彼何人斯若此之艷也。御者対曰、臣聞河洛之神、名曰宓妃。然則君王所見、無迺是乎。其状若何、臣願聞之。

『洛神賦』の書き下し文2

余(よ)は京城(けいじょう)従(よ)り、言(ここ)に東藩(とうはん)に帰る。伊闕(いけつ)を背にし、轘轅(かんえん)を越え、通谷(つうこく)を経て、景山(けいざん)に陵(のぼ)る。日は既に西に傾き、車は殆(おこた)り馬は煩(つか)る。爾(しか)して迺(すなわ)ち駕(が)を衡皐(こうこう)に税(と)き、駟(し)を芝田(しでん)に秣(まぐさか)う。陽林に容与(ようよ)し、洛川(らくせん)に流眄(りゅうべん)す。是(ここ)に於いて精移り神(しん)駭(ち)り、忽然(こつぜん)として思(おも)い散(さん)ず。

俯(ふ)せば則(すなわ)ち未だ察せず、仰げば以(もっ)て観(かん)を殊(こと)にす。一麗人(いちれいじん)を巌(いわ)の畔(ほとり)に覩(み)る。迺(すなわ)ち御者(ぎょしゃ)を援(ひ)いて之(これ)に告げて曰く、「爾(なんじ)は彼(か)の者を覿(み)ること有りや、此(か)くの若(ごと)く之(これ)艶(えん)なるや」。

御者対(こた)えて曰く、「臣(しん)聞く河洛(からく)の神、名は宓妃(ふくひ)と曰(い)うと。然(しか)らば則ち君王(くんのう)の見し所は、迺(すなわ)ち是(こ)れなる無(な)からんや。其(そ)の状は若何(いかん)、臣願わくは之(これ)を聞かん」

『洛神賦』の現代語訳2

私は首都・洛陽から東の藩に帰るのに、伊闕(いけつ…伊水と呼ばれる川が流れる地)をあとに、轘轅(かんえん)の山を越え、通谷(つうこく…洛陽の南)を経て、景山に登った。日はすでに西に傾き、車はなかなか進まず、馬も疲れた。そこで杜蘅草(とこうそう)の芳香漂う岸辺で馬の手綱を解き、霊芝(れいし)が生い茂る場所で馬たちに草を食べさせた。

陽林(ようりん…地名)でくつろぎ、洛川(らくせん)という川を眺める。

こうしているうちに心はぼんやりとし、意識が遠ざかった。うつむくとものがはっきり見えず、顔をあげるといつもと異なる光景が目に入る。美女がひとり岩のそばに立っていた。そこで馬車の御者(ぎょしゃ)の袖を引いてこう聞いた。

「おい、あれを見たか?すごい美人だな」

すると御者は「この川には宓妃(ふくひ)という名の女神がいると聞いたことがあります。殿さまがご覧になったのはこの女神の姿ではないでしょうか。どんなお姿でしたか。私も知りとうございます」とこたえました。

『洛神賦』の原文3

余告之曰、其形也、翩若驚鴻、婉若遊寵、栄曜秋菊、華茂春松。髣髴兮若軽雲之蔽月、飄颻兮若流風之迴雪、遠而望之、皎若太陽升朝霞、迫而察之、灼若芙蓉出淥波。襛繊得衷、脩短合度。肩若削成、腰如約素、廷頸秀項、皓質呈露。芳沢無加、鉛華弗御、雲髻峩峩、修眉聯娟。丹脣外朗、皓齒内鮮、明眸善睞、靨輔承権。瓌姿豔逸、儀静体閑。柔情綽態、媚於語言。奇服曠世、骨像応図。披羅衣之璀粲兮、珥瑤碧之華琚、戴金翠之首飾、綴明珠以耀躯。踐遠遊之文履、曳霧綃之軽裾、微幽蘭之芳藹兮、歩踟蹰於山隅。

於是忽焉縱体、以遨以嬉。左倚采旄、右蔭桂旗。攘皓腕於神滸兮、采湍瀬之玄芝。

『洛神賦』の書き下し文3

余これに告げて曰く、其(そ)の形也(や)、翩(へん)として驚鴻(きょうこう)の若(ごと)く、婉(えん)として遊寵(ゆうりゅう)の若く、栄え曜(かがや)くは秋菊(しゅうぎく)、華(はな)やぎ茂るは春の松。髣髴(ほうふつ)として軽雲(けいうん)の月を蔽(おお)うが若(ごと)く、飄颻(ひょうよう)として流風の雪を迴(めぐ)らすが若(ごと)し。遠くより之(これ)を望めば、皎(こう)として太陽の朝霞(ちょうか)に升(のぼ)るが若く、迫(せま)りて之を察すれば、灼(しゃく)として芙蓉の淥波(りょくは)に出(い)ずるが若し。襛繊(じょうせん)衷(ちゅう)を得(え)、脩短(しゅうたん)度に合う。肩は削り成すが若く、腰は素(そ)を約(たば)ぬるが若し。廷頸(えんけい)秀項(しゅうこう)、皓質(こうしつ)呈露(ていろ)す。芳沢(ほうたく)加うる無く、鉛華(えんか)御(ぎょ)せず、雲髻(うんけい)峩峩(がが)として、修眉(しゅうび)聯娟(れんけん)たり。丹脣(たんしん)外に朗(あき)らかに、皓歯(こうし)内(うち)に鮮(あざ)やかなり。明眸(めいぼう)善(よ)く睞(かえり)み、靨輔(ようほ)権(けん)を承(う)く。瓌姿(かいし)豔逸(えんいつ)にして、儀は静やか、体(たい)は閑(しと)やかなり。柔情(じゅうじょう)綽態(しゃくたい)、語言(ごげん)に媚(なまめか)し。奇服は曠世(こうせい)にして、骨像(こつぞう)図に応ず。羅衣(らい)の璀粲(さいさん)たるを披(はお)り、瑤碧(ようへき)の華琚(かきょ)を珥(はさ)む。金翠(きんすい)の首飾(しゅしょく)を戴(いただ)き、明珠(めいしゅ)を綴(つづ)りて以て躯(み)を耀(かがや)かす。遠遊の文履(ぶんり)を踐(ふ)み、霧綃(むしょう)の軽裾(けいきょ)を曳(ひ)く。幽蘭(ゆうらん)の芳藹(ほうあい)に微(かく)れ、歩(あゆ)みて山隅(さんぐう)に踟蹰(ちちゅ)す。

是(ここ)に於(お)いて忽焉(こつえん)として体(たい)を縱(ほしいまま)にし、以て遨(あそ)び以て嬉(たの)しむ。左に采旄(さいぼう)に倚(よ)り、右(みぎ)に桂旗(けいき)に蔭(かく)る。皓腕(こうわん)を神滸(しんこ)に攘(かか)げ、湍瀬(たんらい)の玄芝(げんし)を采(と)る。

『洛神賦』の現代語訳3

その(女神の)姿は飛び立つ白鳥のように軽やかで、水の中を自在に泳ぐ龍のようにしなやかである。秋の菊のように光輝き、春の松の葉のように華やぎ若やいでいる。薄い雲に覆われ隠れた月のようにおぼろで、風に舞う雪のように軽やかだ。

遠くからこれを眺めれば、太陽が昇り初(そ)める朝焼けのように輝き、近づいて見れば緑の波に立ち上がる蓮の花のようだ。太ってもいず細すぎもせず、高からず低からず、肩はなだらかに、腰回りは白絹を束ねたかのよう。首筋はほっそりとして白く輝き、香(かぐわ)しい油もおしろいも塗られていない。豊かな髷(まげ)は高々と、眉は細く長く弧を描く。朱(あか)い唇は外に向けてくっきりと、白い歯は内に向けて鮮やかに。美しい瞳を流し目に、頬にはえくぼが浮かぶ。美しい姿は艶っぽく、ふるまいは優雅でしとやかだ。

優しい心映(ば)えにたおやかなふるまい、話す言葉も愛らしい。衣服は世にも珍しく、骨相は神仙の図にあるとおり。きらきらした薄絹の衣をまとい、碧(あお)い美玉を耳に揺らす。黄金とヒスイの飾りを頭につけ、真珠をつづってその身を輝かせる。遠遊という名のはきものをはき、霧のごとき裳裾(もすそ)を引く。蘭の香りに身を隠し、山のあちらこちらを歩く。

やがて突然、身も軽やかに遊びたわむれる。左側の色鮮やかな旗に寄り添ったかと思えば、右側の桂の竿の旗に身を隠す。神のおわします汀(みぎわ)で白い腕を露わにし、たぎる早瀬の玄(くろ)い霊芝(れいし)を摘む。

『洛神賦』の原文4

余情悦其淑美兮、心振蕩而不怡。無良媒以接懽兮、託微波而通辭。願誠素之先達兮、解玉佩以要之。嗟佳人之信脩兮、羌習礼而明詩。抗瓊珶以和予兮、指潜淵而為期。執眷眷之款實兮、懼斯霊之我欺、感交甫之棄言兮、悵猶豫而狐疑。収和顔而靜志兮、申礼防以自持。

『洛神賦』の書き下し文4

余が情(じょう)其の淑美(しゅくび)を悦ぶも、心は振蕩(しんとう)して怡(よろこ)ばず。良媒(りょうばい)の以て懽(かん)を接する無く、微波(びは)に託して辞を通ず。誠素(せいそ)の先ず達せんことを願い、玉佩(ぎょくはい)を解きて以て之を要(もと)む。嗟(ああ)佳人の信(まこと)に脩(よ)き、羌(ああ)礼に習い詩に明らかなり。瓊珶(けいてい)を抗(あ)げて以て予(よ)に和(こた)え、潜淵(せんえん)を指して期と為す。眷眷(けんけん)たる款実(かんじつ)を執(と)り、斯(こ)の霊の我を欺かんことを懼(おそ)る。交甫(こうほ)の言を棄つるに感じ、悵(ちょう)として猶予(ゆうよ)して狐疑(こぎ)す。和顔(わがん)を収めて志(こころざし)を静かにし、礼防(れいぼう)を申(の)べて以て自ら持(じ)す。

『洛神賦』の現代語訳4

私はその美しさに胸はずんだが、心は揺れ動いて不安になる。仲立ちをしてくれる人がいないので、目に思いを託す。まずはまごころを伝えようと、帯飾りの玉を解いて思いに代える。ああこの美女の何とすばらしいことか。礼を学び詩にも明るい。美しい玉をかかげて私の気持ちにこたえ、深い淵を指さして会う約束をしてくれた。あふれるまごころを抱きながらも、この神霊が私をあざむくのではないかと恐れる。鄭交甫(てい こうほ)が裏切られた話を思い出し、悲しくためらい疑う。我が表情をひきしめ、はやる気持ちを止め、礼節を守って自分を抑える。

『洛神賦』の原文5

於是洛霊感焉、徙倚傍徨、神光離合、乍陰乍陽。竦軽躯以鶴立、若将飛而未翔。践椒塗之郁烈、歩衡薄而流芳。超長吟以永慕兮、声哀厲而彌長。爾迺衆霊雑遝、命儔嘯侶。或戯清流、或翔神渚、或采明珠、或拾翠羽。従南湘之二妃、攜漢浜之游女。歎匏瓜之無匹兮、詠牽牛之独所。揚軽袿之猗靡兮、翳修袖以延佇。体迅飛鳧、飄忽若神。陵波微歩、羅韈生塵。動無常則、若危若安。進止難期、若往若還。転眄流精、光潤玉顏。含辞未吐、気若幽蘭。華容婀娜、令我忘餐。

『洛神賦』の書き下し文5

是に於いて洛の霊は焉(これ)に感じ、徙倚(しい)傍徨(ほうこう)す。神光は離合し、乍(たちま)ち陰(くら)く乍ち陽(あき)らかなり。軽躯(けいく)を竦(つま)だてて以(もっ)て鶴のごとく立ち、将(まさ)に飛ばんとして未(いま)だ翔(か)けざるが若し。椒塗(しょうと)の郁烈(いくれつ)たるを踏み、衡薄(こうはく)に歩みて芳(かお)りを流す。超(ちょう)として長吟(ちょうぎん)して以(もっ)て永く慕い、声は哀厲(あいれい)にして弥(いよ)いよ長し。爾(しか)して迺(すなわ)ち衆霊は雑遝(ざっとう)たり、儔(とも)に命じ侶(とも)に嘯(うそぶ)く。或いは清流に戯(たわむ)れ、或いは神渚(しんしょ)に翔(かけ)る。或いは明珠(めいしゅ)を采り、或いは翠羽(すいう)を拾う。南湘の二妃を従え、漢浜(かんびん)の游女を攜(たずさ)う。匏瓜(ほうか)の匹無きを歎き、牽牛(けんぎゅう)の独り処(お)るを詠す。軽袿(けいけい)の猗靡(いび)たるを揚げ、脩袖(しゅうしゅう)を翳(かざ)して以て延佇(えんちょ)す。体(たい)は飛鳧(ひふ)よりも迅(はや)く、飄忽(ひょうこつ)として神(しん)の若し。波を陵(しの)ぎて微歩(びほ)し、羅韈(らべつ)塵(ちり)を生ず。動くに常則無く、危きが若く安きが若し。進止(しんし)期し難く、往くが若く還るが若し。転眄(てんべん)して精を流すは、光潤(こうじゅん)なる玉顏(ぎょくがん)。辞(ことば)を含むも未だ吐かず、気は幽蘭(ゆうらん)の若し。華容(かよう)は婀娜(あだ)として、我をして餐(そん)するを忘れしむ。

『洛神賦』の現代語訳5

こうして洛水の女神は私の思いに心動かし、行きつ戻りつを繰り返す。神の光が集まっては離れ、離れては集まる。その都度あたりは明るくなり又暗くなる。軽やかな体を伸ばすと鶴のように立ち、今まさに飛翔せんと見えて飛び立つことはない。花椒(かしょう)の香る道やヤブミョウガの草むらを歩けば香りが立ちのぼり、悲しみに満ちた歌の調べがいつまでも続く。おおぜいの神々が集まっては互いに声を掛け合う。清流にたわむれ、神々しい渚に向けて飛翔し、真珠を採り翡翠を拾う。洛神は湘水の二人の女神、娥皇と女英を従え、漢水の女神を伴う。匏瓜(ほうか)星のように伴侶なきを嘆き、牽牛星のように独り身であることをうたう。軽い上衣はふわりと浮かび、長い袖をかざしてはいつまでも佇(たたず)む。身のこなしは水鳥より速く、神の身軽さを示す。波を越えて静かに歩み、薄絹の履物からは塵が舞う。動きにきまりなく、危うくもあり、安らかでもある。進むのか止まるのか測り難く、先に進むようでもあり、後ろに戻るようでもある。流し目をつかうその玉顔はつややか。言葉を発することなく、淡い蘭の花のような息を吐く。花のかんばせはなまめかしく、食べることも忘れるほどだ。

『洛神賦』の原文6

於是屏翳收風、川后静波。馮夷鳴鼓、女媧清歌。騰文魚以警乗、鳴玉鸞以偕逝。六龍儼其斉首、載雲車之容裔。鯨鯢踊而夾轂、水禽翔而為衛。於是越北沚過南岡、紆素領迴清揚、動朱脣以徐言、陳交接之大綱。恨人神之道殊兮、怨盛年之莫当。抗羅袂以掩涕兮、涙流襟之浪浪。悼良會之永絶兮、哀一逝而異郷。無微情以效愛兮、献江南之明璫。雖潜處於太陰、長寄心於君王。忽不悟其所舎、悵神宵而蔽光。

『洛神賦』の書き下し文6

是に於いて屏翳(へいえい)は風を収め、川后(せんこう)は波を静む。馮夷(ひょうい)は鼓(つつみ)を鳴らし、女媧(じょか)は清歌(せいか)す。文魚(ぶんぎょ)を騰(あ)げて以(もっ)て乗(じょう)を警(いまし)め、玉鸞(ぎょくらん)を鳴らして以(もっ)て偕(とも)に逝く。六龍(りくりゅう)は儼(げん)として其(そ)れ首(こうべ)を斉(そろ)え、雲車(うんしゃ)の容裔(ようえい)たるに載る。鯨鯢(げいげい)は踊りて轂(こしき)を夾(はさ)み、水禽(すいきん)は翔(かけ)て衛(まも)りを為(な)す。是に於いて北沚(ほくし)を越え 南岡(なんこう)を過ぐ。素領(そりょう)を紆(めぐら)し 清陽(せいよう)を迴(めぐ)らす。朱脣(しゅしん)を動かして以(もっ)て徐(おもむ)ろにに言い、交接の大綱(たいこう)を陳(の)ぶ。人神(じんしん)の道の殊(こと)なるを恨み、盛年(せいねん)の当(あた)る莫(な)きを怨む。羅袂(らべい)を抗(あ)げて以(もっ)て涕(なみだ)を掩(おお)うも、涙は襟に流れて浪浪(ろうろう)たり。良会(りょうかい)の永く絶ゆるを悼(いた)み、一たび逝(ゆ)きて郷(さと)を異(こと)にするを哀しむ。「微情(びじょう)の以(もっ)て愛を効(いた)す無きも、江南(こうなん)の明璫(めいとう)を献(けん)ぜん。潜(ひそ)かに太陰(たいいん)に処(お)ると雖(いえど)も、長(とこしえ)に心を君王(くんのう)に寄せん」と。

忽(たちま)ち其の舎(お)る所を悟らず、悵(ちょう)として神(しん)宵(くら)みて光を蔽(おお)う。

『洛神賦』の現代語訳6

ここに風神・屏翳(へいえい)は風を止め、川の神・川后(せんこう)は波を鎮めた。黄河の神・馮夷(ひょうい)が鼓を打ち、女神・女媧(じょか)が清らかな歌声を響かせた。文魚(ぶんぎょ)という魚は跳びはねて馬車を警護し、車につけた鈴が鳴ると女神たちは皆いなくなった。六頭の龍は厳(いか)めしくその首をそろえ、神女は粛々と進む雲車に乗る。鯨鯢(げいげい)は跳ねながら車を挟み、水鳥は飛んで護衛となる。

こうして北の渚(なぎさ)を越え南の岡を過ぎていく。白いうなじを回し、美しい目元を動かし、赤い唇を開いておもむろに男女の交際のあるべき姿を語る。

人と神との道の異なるを恨み、若き日に連れ添えないことを怨む。薄絹のたもとで涙を隠しても、涙は襟元をひどく濡らす。逢うことは二度とかなわず、ひとたび別れれば互いに離れ離れになるを悲しむ。「ささやかな情をもって愛を尽くすことができないので、江南の真珠の耳飾りを贈ります。身は暗闇に隠れても、いつまでも殿を思い続けます」と言うとふいにその姿は消え、悲しくも神霊は見えなくなり光も闇に覆われた。

『洛神賦』の原文7

於是背下陵高、足往神留。遺情想像、顧望懐愁。冀霊体之復形、御軽舟而上遡、浮長川而忘反、思綿綿而増慕。夜耿耿而不寐、霑繁霜而至曙。命僕夫而就駕、吾将帰乎東路。攬騑轡以抗策、悵盤桓而不能去。

『洛神賦』の書き下し文7

是に於いて陵の高きより背(そむ)き下(くだ)り、足往(ゆ)くも神(しん)は留(とど)まる。情を遺(のこ)して想像し、顧望(こぼう)して愁いを懐(いだ)く。霊体の復(ま)た形(あらわ)れんことを冀(こいねが)い、軽舟(けいしゅう)を御(ぎょ)して上遡(じょうそ)す。長川(ちょうせん)に浮かびて反(かえ)るを忘れ、思いは綿綿(めんめん)として慕うを増す。夜は耿耿(こうこう)として寐(い)ねず、繁霜(はんそう)に霑(うるお)いて曙(あけぼの)に至る。僕夫(ぼくふ)に命じて駕(が)に就(つ)かしめ、吾 (われ)は将(まさ)に東路(とうろ)に帰らんとす。騑轡(ひひ)を攬(と)りて以て策(さく)を抗(あ)げ、悵(ちょう)として盤桓(ばんかん)して去る能(あた)わず。

『洛神賦』の現代語訳7

こうして高い丘を後ろにして下におりたが、足は前に進んでも心は元の場所に留まったまま。思いは残って女神の姿がありありと目に浮かび、振り返っては悲しみに沈む。

女神がまた現れることを冀(こ)い願い、小舟を漕いで川をさかのぼる。長い川に浮かんで帰ることを忘れ、思いは綿々として一層恋しさがつのる。夜も悶々として眠れず、霜に濡(ぬ)れたまま夜明けを迎える。下僕に命じて馬車の準備をさせ、東路を通って帰ろうと思う。副(そ)え馬の手綱を取り、鞭を振っても、悲しみに堂々巡り、去っていくこともできない。

曹植と『洛神賦』

曹植の『洛神賦』は、222年(一説に223年)曹植31歳の作品です。目くるめくように飛びかう大量の煌びやかな漢字に圧倒されるとともに、インスピレーションを受けた天才作家が紡ぎ出す幻想的な世界に引き込まれます。

文選』(もんぜん)には『洛神賦』をめぐっておおよそ以下のような記述があります。

「曹植は後漢末に甄逸の娘を妻に求めたが、曹操は彼女を曹丕の妻とした。曹植は彼女を思って眠ることもできず、食事も喉を通らないというありさまだった。

黄初年間に曹植が朝廷に参内した際、魏の文帝である曹丕が、曹植に甄逸の娘の玉鏤金帶の枕を見せると、曹植は思わず涙を流した。甄逸の娘はこの時すでに曹丕の皇后の命令で命を奪われていたからである。曹丕はこの枕を曹植に贈った。」

『洛神賦』は、曹植がこのことがあった帰り道に体験した話として物語られます。

この作品は六朝時代には王献之(344 - 386)・顧愷之(345? - 406)といった有名な書道家や画家の作品の題材になり、古い時代から人々に愛されてきました。

ところで『洛神賦』の「(ふ)」とは古代中国で書かれた文章の文体の一つで、詩と散文の両方の性質を持っています。

この賦が書かれた時代は建安年間(けんあん ねんかん…後漢末の献帝時代…196~220)。後漢王朝の実権は曹操(そう そう…155~220)が握り、この時期の文学界で活躍した人々もまた曹操一族から出ています。魏の武帝・曹操を始めとして、魏の文帝・曹丕、魏の明帝・曹叡、陳思王・曹植らです。彼らによる作品を「建安文学」と呼びます。

この建安文学以降、あるいは全六朝時代(りくちょう じだい…222~589)を通して、賦の人気は詩を超えるほどだったといいます。

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